ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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「我思うゆえに我あり」思考。

『我思うゆえに我あり。』(Je pense, donc je suis
高校の倫理で習ったデカルトのことば。

3月31日 はフランスの哲学者 ルネ・デカルトの誕生日。 | 青木孝文 ...

哲学者デカルトが、この世における、疑いようのない、絶対的な真理は何かというコムズカシイことを考えた末に見出したのがこのことばだそう。

 

この世に存在する(と認識できる)全てのものを差し置いて、考えている私自身、という自意識だけはその存在を否定しようがない、という意味のことばらしいのだけれど、そんなことより、デカルトがこのことばにたどり着いたプロセスに学びがあるなと思った。

 

デカルトの、「それは本当に真理に到達しているのか」という問いを続けること、もっと言えば、自分の中の問いすらも、本当の問いなのか、常に自分の問いに批判的な見方を持ち、自分の中での内省を深めていくこと。これは「思い込み」を抜け出すうえで大事な思考法だなと思った。

 

仕事の中では与えられた問いに対して一直線に答えを出すこと、あるいはその答えにバリエーションを出すことは考える。一方で、その問いについて疑いの目を向けることは意外と少ない。仮にその問いに疑問を持つことはあっても、「その問いは間違っているのではないか?」という反証に終わることが多いように思えて、「その問いはなぜ発せられたのか」というところまで関心がいかない。

 

与えられた「問い」だけではない。内省する中で生まれる「問い」について、その自分をさらに客観視して、「なぜそもそもそんな問いが生まれたのか」には意識がいかない。

 

例えば仮に「この仕事を全うするためにはどうしたらよいだろう」という問いを自分の中で立てたとすると、直感的に「これが確からしい」と思う問いの答えや、「いや、このやり方もあるのではないか」という別の答えが論理的に導き出せたとする。もしかすると、その答えがすぐには出せず、次の日に持ち越すこともあるかもしれない。

 

「問い続ける」ことで、結果的にその問いそのもの自体は「解決されるもの」と自分が考えるようになり、それがやがて「思い込み」につながる。「仕事で結果を出すためにはどうしたらよいか?」→「仕事で結果を出さねばならない」、「結婚するためにはどうしたらよいか?」→「結婚しなければならない」といった類のものだ。(この例が浮かんだ時点ですでに自分もその問いに囚われているのかもしれない)

 

この思考から抜けるためには、一度「問い」自体を問うてみることが処方箋になるのではないかと思う。なぜその問いを今、自分は問うているのか。(そもそも自分の中で問いを立てているということを客観視できているということは、自分の脳のリソース、精神的・時間的余裕があるということなのだから、とてもぜいたくなのだ、とポジティブに解釈してみたくなる)

 

この思考を続けると、最終的には「なぜ自分は問いについての問いを立てているのだろうか?ということを問うているのだろうか?」(以下無限ループ)と深淵の世界に入っていくので、ある程度のところで思考を止めたほうが良いかもしれない。

 

なぜ金曜日にこんな投稿をしようと思ったのか?と最後自分に問いかけたくなったのはなぜか?(哲学者気分を味わいたくなったのか?しかもそれをブログで?なぜ?)ということをあと小一時間考えて、寝ることにする。