ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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ゼロ文脈を生きる。

「どうしてわかってくれないの」

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日常生活のあらゆるところで、相手のことを理解しえないタイミングがある。

実際に言っていることと、やっていることが違う。

実際に質問していることと、答えとして求めていることが違う。

相手がやっていることの真意が理解できない。

 

わたしたちはこういったときに「認識齟齬が起きた」とか「共感できない」という言葉を使うが、そもそもわたしたちが前提として「分かり合える」ものと思っているからこんな風に思ってしまうのではないか、と最近考える。

 

 

大学時代の話で、最近腹落ちしたことがある。

 

わたしは大学時代に留学生寮に住んでいて、日本人・フィリピン人・インドネシア人・バングラデシュ人etc...と暮らしていた。国籍が違えば多少不衛生だったり、奇想天外なことが起きても、「まあこんなもんだろう」と済ませられるものが、不思議なことに同じ日本人同士だと、ほんの少しのことでお互いの仲が悪くなったり、イライラしてしまうことがよくあった。

 

なぜだろう?と考えてみたのだが、ここにも「お互いが分かり合える」という前提に立って生活をしているから、というのが隠されているのだと思った。お互いが阿吽の呼吸で、相手が言わなくても相手の気持ちを推し量ることができる、相手への気遣いができる、とお互いが意識的か、無意識的か感じていたのかもしれない。

 

こう考えてみるとわたしたちはお互いの「違い」を敏感にかぎ分けられるが、それは同時に自分たちと「同じ」人というグルーピングも無意識のうちにやっている、と言えるかもしれない。

 

もう少し大きな話をすれば「多様性」「ダイバーシティ」という言葉をよく聞くが、これはある意味「私たちの側」「そうでないその他大勢の人」という括りを作っているのではないかという気がする。

 

「あの人はわたしたちと『違う』けど、それも多様性だからね~」というのは、わたしとあなたは同じ感覚を持ち合わせているけれど、あの人は私たちとは違う、という意志表示をしている、ともとれる。この時点で「わたしとあなた」/「あの人」という大きな境界線ができてしまっていて、この境界線を「あなたとわたし」は跨ぐことなく、あくまで「あなたとわたし」がこのまま何もなく、穏やかに暮らせることを「多様性」というあいまいな言葉でぼかしているのではないかと思うときがある。

 

わたしが「多様性」と聞くと違和感を覚えるのはこの点にある。
本当に「多様性」を重んじているのであれば、「わたしとあなた」もどこかで分かり合えないところがあり、その「居心地の悪さ」みたいなものも含めて、一人ひとりの多様性なのではないかと思う。「わたしとあなた」/「それ以外の大勢」ではあまりにも多様性の粒度が低すぎるし、そこはあくまで自分一個人として、他の人一人ひとりとどう違うか、どこが似ているかを考えていく必要がある。

 

とはいえ、みんな悪気があって「わたしとあなた」/「その他大勢」という構図を作っているわけではないと思うし、きっと無意識のうちに共感性を働かせているのだと思う。

 

だからわたしたちはコミュニケーションをとるときは「相手の気持ちはわからない」「自分の文脈は相手に共有されていない」というゼロ文脈で接することを前提にする(=共感性を下げる)ことが必要になってきているのだと強く感じる。「わかりえないから相手とはそれ以上接しない」ではなく、「分かり合えないのが当たり前だから、それをスタート地点にして、相手を知るためのコミュニケーションを取る」ということを意識していきたい。