ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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魔の3週間を超えて。

くう、ねる、はたらく。

この3語に集約される3週間だった。

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朝は7時に起きて、夜は24時まで仕事するような生活が毎日続いて、さすがに土日は辛いな、と思いながら、自分で増やした仕事に追われて、資料作成をするような日もあった。

 

去年のいまごろは業務時間の8時間すらやることがないようなとても暇な状態すぎて、それはそれで辛かったけれど、仕事に追われすぎて、気持ち的にゆとりがないのもそれはそれでしんどい。

 

思ったのは、単純に仕事している時間(可処分時間)が長いから、心のゆとりがない、というよりは、自分の中で緊急度や重要度の高いタスクがいくつも並行して行わないといけないという心理的な圧迫のほうが多かったように思う。

 

長時間働くことには慣れているし、それ自体で拒否反応は出ないものの、常に時間に追われている感覚は精神衛生上よろしくない。頭の中が仕事でいっぱいになってしまって、体力がどんどん奪われていく中での唯一の娯楽は食べることで、朝も昼もゆっくり食べられないので、ひたすら夜は時間があれば外食して、ひたすら食べまくる、というような毎日だった。

 

もちろん仕事で得られる充実感はある。忙しい中でもちゃんとそれぞれの仕事の要所要所では時間厳守、仕事の質を担保するというのはある程度できたと思う。ただ、目の前の仕事を片付けることにいっぱいいっぱいだから、仕事での+α、自分のオリジナリティを出したり、一緒に働いている人のプラスになるような提言をする、というような「遊び」ができなかったのは反省点だなとおもう。

 

仕事もプライベートもある程度の「余白」が必要だ。常に目の前のことに追われて、近視眼的な考え方しかできなくなると、目の前の事(人間関係や、仕事での成果)が立ち行かなくなると、自分の心のよりどころにできるものが少なくなる。だから、もし時間的に余白がなかったとしても、心の余裕は常に一定持っておくべきだし、それは言い換えれば目の前の一つのことに依拠しすぎないということだと思う。

 

私が思うに、「目の前のことが一つや二つなくなったとしても、わたしには他にも居場所があるから大丈夫」と思えるかどうかが心の余白なのではないかと思う。『居場所』というのは何も必ずしも今目の前にいる人や目の前にあるモノである必要はなくて、「わたしがわたしらしくいられる場所は必ず存在するはずだ」という根拠のない自信から生まれる、空想だってかまわない。

 

うだうだといろいろ書いたが、仕事量が増えるのは一向にかまわないけれど、それを受け入れる自分の心の器を大きくできるかどうかがこれから大事になってくるのだと思う。目の前の膨大な仕事量に圧倒されず、それを24時間しかない「時間」という変数だけで解決することなく、常に心と頭にスペースをつくっておくこと。

 

それはただ単純に仕事をこなす中での慣れの問題というよりかは、これからどう仕事に、プライベートにどう構えるかという型をあらかじめ定めていくことなのだと思う。同じことをやっていても、忙しさなどどこ吹く風で飄々と仕事をこなせる人もいれば、鬼気迫る形で仕事に追われる人もいる。

 

その違いは、やはりその人の仕事やプライベートでの『余白』(『距離感』ともいえるかもしれない)にあるというのが私の今のところの仮説だ。また来週からも仕事は減るどころか増える一方ではあるものの、『余白』は増やしていきたいなと思う週末でした。