今年の仕事ぶりを振り返ってみる:1月。
気づけばもう12月も10日前後になっているので、今年の仕事ぶりを振り返ってみようと思う。
今年1月は最初に配属されたプロジェクトから離れることもあって、引継ぎなどでバタバタしたスタートだった。最初に配属されたプロジェクトの評価は上々で、「こんなにできるのに、いなくなるがもったいない」と上司に言ってもらえたのがとても嬉しかった。
最初のプロジェクトは正直上司が忙しすぎてほぼ放置プレイだったので、ひたすら自分から上司の目に留まるようなアウトプットを出すのが仕事だった。何かお題を与えられたらそれについてアイデアを膨らませて、パワーポイントなどで表現する、といったことは大学時代からずっと好きだったし、同じ要領で仕事ができたのは大きいなと思う。「意外と会社でも通用するスキルなんだな」ということがわかり、これは今後強みにしていっていいのかもな、と思った。
ただ、同期がゴリゴリJavaやPythonなどプログラミングをしている中、自分だけひたすらパワポを書いていたので、一体自分の職業はなんなんだろうな、のも事実で、エンジニアよりこういうコンサルワークに近い仕事の方が得意なんだろうなとは直感的に感じた。プログラミングは時間をかければ人並みにはできるけど、才能がある方ではないな、と同期を横目に見ながら思った。
ただパワポ書きしかできない人にはなるのは嫌だったし、エンジニアとしてある程度技術がわかり、モノを作れる人になりたいなと思っていたから、プロジェクト以外でアプリ製作(自分がメインでやったのはアプリデザインだけど)をやったりしてみた。こういう課外活動をしてみると、プロジェクトやクライアントの論理に縛られず、自分で0から1を作る貴重な機会になり、学べることも多かった。
ターゲットの気持ちを想像して仮説を立てる。仮説を基にヒアリングする。
ヒアリング結果をもとにより精緻な仮説を立てて、そこから解決策を練る。
解決策を実際にアプリの機能に落としていって、アプリデザイン・画面を考える。
画面ごとに担当を割り振り、期限を決めて、その進捗を管理、自分も開発する。
出来上がったアプリをデモ用に見せ方を考える。説明用資料を作る。
ざっと書き出してみただけでこれだけやることがあり、一つ一つに学びがあった。
自分はゴリゴリのエンジニアで開発がそこまでできるわけではないけれど、それぞれの局面で色々とロールを変えながら、最後までモノを作り抜く、というのは意外と得意なのかもしれないとこの経験を通して思った。
と同時に、少人数であれば、こういう仕事の進め方はできるけれど、若手のうちはそれぞれのフェイズで一個人としてのロールを全うすることが求められるのだな、というのがプロジェクトとの比較でわかってきた。
大きなプロジェクトだと、だいたいすでに仕事のフロー、仕事の成果物は決まっていて、後はもうその枠の中でどれだけアウトプットを正確かつ素早く作れるかが求められる。「それが悪い」と言っているわけではなくて、むしろ全体最適化の観点から見たら大きな仕事の進め方はそうであってしかるべきだとも思う。
10人くらいまでの規模なら、なんとかそのチーム内で生み出した独自のやり方で、進めていけるのかもしれないけれど、もっと大きなチームになると、コミュニケーションコストも膨大になってきて、その交通整理をする意味で、既に他のプロジェクトのやり方を踏襲・アレンジして進めるのが効率がいいのだと思う。言い換えれば「0から1」ではなく、「すでにある1を転用して、さらに大きな100を目指す」ことが大きな仕事の進め方の一つなのだなと最近感じる。
大企業だからこそ、こういう仕事の知見というのか、集合知みたいなものを知れるのは大きい。ただ、自分がその集合知の中で働くこと以上に、集合知を自分の中で咀嚼・因数分解して、自分がいざ0から1を作るとなったときに転用できるようにしておかなければならない。それはドキュメントしかり、会社独自のフレームワークしかり、クライアントとの折衝の仕方しかりで、この集合知をいかに自分なりにアレンジして使いこなせるようになるかが今後肝になってくるなと改めて思う。
…1年の振り返りをするつもりが、結局1月しか振り返れなかったので、また気が向いたらそのあとも書こうと思う。
自己承認欲求オバケから脱却するために。
最近ずっとずっと考えていて、やっと腹落ちしたことがある。
働く意味。何が自分にとって一番のモチベーションになるか。
自分の気持ちに正直になってみるとして。
これまで自己承認欲求が自分の仕事の原動力だったように思う。
私たちの世代、いわゆるゆとり世代や、少し下のZ世代はこの欲求が他の世代に比べて比較的高い、と最近本で読んだ。
上司でも、同僚でも、別の会社の人でも誰でもいいから、自分を認めてほしい。
自分の仕事を、自分のユニークさを知ってほしい。
思い返してみて、確かに自分を仕事に駆り立てる大きな原動力が承認欲求だ。
仕事は承認欲求を満たすのには最適な場だと思う。
上司やクライアントの期待値を超える、誰かの仕事を請け負う、言われてもいない仕事をやる。「すごいね」「仕事できるね」「仕事早いね」って言われると自分の頑張りが報われたような気がして、もっと頑張ろうという気になるのだけれど、なんだか常に欠乏している。
「もっと褒めてほしい」「もっと報われるべきだ」
…自己承認欲求をインスタントに満たせても、何かが不足している。自分には何かが足りていない気がする。当たり前だけれど、働ける時間は有限だし、働いたら働いた分だけ一時間当たりの生産性は落ちて、自分の無力さを痛感して、自己嫌悪に陥る。
それに自己承認欲求が満たせないときは地獄だ。「やって当たり前」「できて当たり前」と周りの期待値が上がれば上がるほど、みんな褒めてくれなくなる。本当に自分が仕事ができないのか、それとも自分が周りの期待値をどんどん更新して、当たり前の基準値が上がっているのかはわからないけれど、年次を重ねれば重ねるほど、褒められる機会は減っていくのだろうなと思う。上に立てば立つほど「褒められる」ことより「褒める」ことが圧倒的に多くなっていくのだろうなと何となくこれまでの経験を見て思う。
ちょっと話が変わるが、「褒められる」というのは、期待値を超えた時にもらえるリアクションだとおもう。(もちろんそうじゃないときにも褒めてくれる人はいるのだが)ただ、期待値を超えすぎると不思議なもので人は「褒める」を通り越して「恐れる」にリアクションが変わるときがある。予想の斜め上過ぎて、なんだか自分が脅かされてしまうような、あるいは自分とは違う世界に行ってしまったようなリスペクトや畏敬の感情が出てくるのだと思う。
総じて「自己承認欲求」はもろくて、はかない。
他人に自分の評価を依拠してしまうことに慣れてしまうと、常に他人の評価を気にせざるを得なくなる。サラリーマンである以上、他人の評価には敏感であっていいと思うのだけれど、それでもこれだけでは今後自分の働く意味を見出せなくなるんだろうな、と直感で思う。
じゃあ、どうすればいいのか、というところで、自分にとってさらに高次な欲求が仕事に対するモチベーションを与えてくれるんだろうなとも思う。他人の評価に依拠しない、自分の内側から活力が出てくるようなエネルギーのもと。
私の場合、それは「知的欲求」なんだろうなと思う。
知識の点と点が結びついて、線になり、それが面になる感覚。
これはインスタントには得られないもので、むしろその知識の獲得には大変な苦労をすることもあるのだけれど、自分の中でその点が点が結びついて、一つのパズルが完成した時に味わう感情は何物にも代えられないと思う。
お世話になった大学の教授がこんなことを言っていたのを思い出した。
わたしが大学教授をやっていて楽しいと思うことは何ですか、と聞いたら、
その先生が黒板に「Reconceptualization(再概念化)」と書いた。
当時のわたしにとっては全然意味がわからなかったし、もっとわかりやすくいってほしいなと少し憤りを感じたのだけれど、あのとき教授が言っていたことがなんとなくわかるようになってきた。
自分の中で獲得した知識を頭の中で解きほぐして、他の知識と結びつけること、それをさらに抽象度をあげて、一つの系をなす概念に捉えなおすこと、を教授は「再概念化」と表現したのではないかと思う。
いまは当時専攻していた国際関係とは全く違う、ITコンサルティングの世界にいるのだけれど、この膨大な知識や経験知の海を泳ぐ中でどれだけ自分がこの感覚を持てるかどうかが当面のモチベーションになりそうだ。知ることに終わりはないし、知ることそのものが手段化してしまうのは本末転倒なのだけれど、自分の中から湧き上がる知的好奇心に任せて、もっともっといろんなことにチャレンジしたいな、と、とても月並みな纏め方になってしまったけど、そうしみじみ感じた火曜日でした。
自己承認欲求オバケから脱却するために。
最近ずっとずっと考えていて、やっと腹落ちしたことがある。
働く意味。生きる意味。何が自分にとって一番のモチベーションになるか。
自分の気持ちに正直になってみるとして。
これまで自己承認欲求が自分の仕事の原動力だったように思う。
私たちの世代、いわゆるゆとり世代や、少し下のZ世代はこの欲求が他の世代に比べて比較的高い、と最近本で読んだ。
上司でも、同僚でも、別の会社の人でも誰でもいいから、自分を認めてほしい。
自分の仕事を、自分のユニークさを知ってほしい。
思い返してみて、確かに自分を仕事に駆り立てる大きな原動力が承認欲求だ。
仕事は承認欲求を満たすのには最適な場だと思う。
上司やクライアントの期待値を超える、誰かの仕事を請け負う、言われてもいない仕事をやる。「すごいね」「仕事できるね」「仕事早いね」って言われると自分の頑張りが報われたような気がして、もっと頑張ろうという気になるのだけれど、なんだか常に欠乏している。
「もっと褒めてほしい」「もっと報われるべきだ」
…自己承認欲求をインスタントに満たせても、何かが不足している。自分には何かが足りていない気がする。当たり前だけれど、働ける時間は有限だし、働いたら働いた分だけ一時間当たりの生産性は落ちて、自分の無力さを痛感して、自己嫌悪に陥る。
それに自己承認欲求が満たせないときは地獄だ。「やって当たり前」「できて当たり前」と周りの期待値が上がれば上がるほど、みんな褒めてくれなくなる。本当に自分が仕事ができないのか、それとも自分が周りの期待値をどんどん更新して、当たり前の基準値が上がっているのかはわからないけれど、年次を重ねれば重ねるほど、褒められる機会は減っていくのだろうなと思う。上に立てば立つほど「褒められる」ことより「褒める」ことが圧倒的に多くなっていくのだろうなと何となくこれまでの経験を見て思う。
ちょっと話が変わるが、「褒められる」というのは、期待値を超えた時にもらえるリアクションだとおもう。(もちろんそうじゃないときにも褒めてくれる人はいるのだが)ただ、期待値を超えすぎると不思議なもので人は「褒める」を通り越して「恐れる」にリアクションが変わるときがある。予想の斜め上過ぎて、なんだか自分が脅かされてしまうような、あるいは自分とは違う世界に行ってしまったようなリスペクトや畏敬の感情が出てくるのだと思う。
総じて「自己承認欲求」はもろくて、はかない。
他人に自分の評価を依拠してしまうことに慣れてしまうと、常に他人の評価を気にせざるを得なくなる。サラリーマンである以上、他人の評価には敏感であっていいと思うのだけれど、それでもこれだけでは今後自分の働く意味を見出せなくなるんだろうな、と直感で思う。
じゃあ、どうすればいいのか、というところで、自分にとってさらに高次な欲求が仕事に対するモチベーションを与えてくれるんだろうなとも思う。他人の評価に依拠しない、自分の内側から活力が出てくるようなエネルギーのもと。
私の場合、それは「知的欲求」なんだろうなと思う。
知識の点と点が結びついて、線になり、それが面になる感覚。
これはインスタントには得られないもので、むしろその知識の獲得には大変な苦労をすることもあるのだけれど、自分の中でその点が点が結びついて、一つのパズルが完成した時に味わう感情は何物にも代えられないと思う。
お世話になった大学の教授がこんなことを言っていたのを思い出した。
わたしが大学教授をやっていて楽しいと思うことは何ですか、と聞いたら、
その先生が黒板に「Reconceptualization(再概念化)」と書いた。
当時のわたしにとっては全然意味がわからなかったし、もっとわかりやすくいってほしいなと少し憤りを感じたのだけれど、あのとき教授が言っていたことがなんとなくわかるようになってきた。
自分の中で獲得した知識を頭の中で解きほぐして、他の知識と結びつけること、それをさらに抽象度をあげて、一つの系をなす概念に捉えなおすこと、を教授は「再概念化」と表現したのではないかと思う。
いまは当時専攻していた国際関係とは全く違う、ITコンサルティングの世界にいるのだけれど、この膨大な知識や経験知の海を泳ぐ中でどれだけ自分がこの感覚を持てるかどうかが当面のモチベーションになりそうだ。知ることに終わりはないし、知ることそのものが手段化してしまうのは本末転倒なのだけれど、自分の中から湧き上がる知的好奇心に任せて、もっともっといろんなことにチャレンジしたいな、と、とても月並みな纏め方になってしまったけど、そうしみじみ感じた火曜日でした。
魔の3週間を超えて。
くう、ねる、はたらく。
この3語に集約される3週間だった。
朝は7時に起きて、夜は24時まで仕事するような生活が毎日続いて、さすがに土日は辛いな、と思いながら、自分で増やした仕事に追われて、資料作成をするような日もあった。
去年のいまごろは業務時間の8時間すらやることがないようなとても暇な状態すぎて、それはそれで辛かったけれど、仕事に追われすぎて、気持ち的にゆとりがないのもそれはそれでしんどい。
思ったのは、単純に仕事している時間(可処分時間)が長いから、心のゆとりがない、というよりは、自分の中で緊急度や重要度の高いタスクがいくつも並行して行わないといけないという心理的な圧迫のほうが多かったように思う。
長時間働くことには慣れているし、それ自体で拒否反応は出ないものの、常に時間に追われている感覚は精神衛生上よろしくない。頭の中が仕事でいっぱいになってしまって、体力がどんどん奪われていく中での唯一の娯楽は食べることで、朝も昼もゆっくり食べられないので、ひたすら夜は時間があれば外食して、ひたすら食べまくる、というような毎日だった。
もちろん仕事で得られる充実感はある。忙しい中でもちゃんとそれぞれの仕事の要所要所では時間厳守、仕事の質を担保するというのはある程度できたと思う。ただ、目の前の仕事を片付けることにいっぱいいっぱいだから、仕事での+α、自分のオリジナリティを出したり、一緒に働いている人のプラスになるような提言をする、というような「遊び」ができなかったのは反省点だなとおもう。
仕事もプライベートもある程度の「余白」が必要だ。常に目の前のことに追われて、近視眼的な考え方しかできなくなると、目の前の事(人間関係や、仕事での成果)が立ち行かなくなると、自分の心のよりどころにできるものが少なくなる。だから、もし時間的に余白がなかったとしても、心の余裕は常に一定持っておくべきだし、それは言い換えれば目の前の一つのことに依拠しすぎないということだと思う。
私が思うに、「目の前のことが一つや二つなくなったとしても、わたしには他にも居場所があるから大丈夫」と思えるかどうかが心の余白なのではないかと思う。『居場所』というのは何も必ずしも今目の前にいる人や目の前にあるモノである必要はなくて、「わたしがわたしらしくいられる場所は必ず存在するはずだ」という根拠のない自信から生まれる、空想だってかまわない。
うだうだといろいろ書いたが、仕事量が増えるのは一向にかまわないけれど、それを受け入れる自分の心の器を大きくできるかどうかがこれから大事になってくるのだと思う。目の前の膨大な仕事量に圧倒されず、それを24時間しかない「時間」という変数だけで解決することなく、常に心と頭にスペースをつくっておくこと。
それはただ単純に仕事をこなす中での慣れの問題というよりかは、これからどう仕事に、プライベートにどう構えるかという型をあらかじめ定めていくことなのだと思う。同じことをやっていても、忙しさなどどこ吹く風で飄々と仕事をこなせる人もいれば、鬼気迫る形で仕事に追われる人もいる。
その違いは、やはりその人の仕事やプライベートでの『余白』(『距離感』ともいえるかもしれない)にあるというのが私の今のところの仮説だ。また来週からも仕事は減るどころか増える一方ではあるものの、『余白』は増やしていきたいなと思う週末でした。
多様性アウフヘーベン。
多様性は第三の解を生む。
Aという解も正しく、Bという解も正しい、という場合、わたしたちは往々にして、A vs Bという対立項で物事を考えてしまう。
結果的に絶対的に正しい「A」という解が見つかればよいのだけれど、そういうときはあまりなく、だいたい「Aただし条件付きでB」になったり、「AもBもどっちもその通りだよね、意見の多様性って大事だよね」でお茶を濁してしまう。
最近よく思うのは、まずもってAという意見もBという意見も複数意見出ることが答えのバリエーションが増える、という点においてはとてもよいことだし、これがA、B、C、D、E…と増えていけばいくほど、Aの意見がBの意見にいい影響を与え、Cの意見もAの意見にいい影響を与える、とお互いの意見がより洗練されていく場合もある。
高校の倫理で一度は読んだことのあるヘーゲルの「弁証法」という思考法がまさにこのプロセスを言い表していると思う。
モノやコトが「否定」を通じて、より新しく・高い次元に再生成される、というプロセスを、ヘーゲルは「正(テーゼ)」「反(アンチ・テーゼ)」「合(ジン・テーゼ)」ということばを用いて説明している。
「A. 目を覚ますためにコーヒーを飲むべきだ」というテーゼがあったとして、
他の人が「B. いや健康のために牛乳を飲むべきだ」というアンチテーゼを立てたとする。この場合、わたしたちが取りうる選択肢は、A/Bの二項対立で考えると、2択でしかないのだが、もし仮にお互いの思考を両方取り入れた場合に、新たな意見「C. 目を覚まし、健康にもよいカフェオレを飲もう」という意見が生まれる。
これがヘーゲルの言う止揚<アウフヘーベン>で、この意見をまとめ上げ、さらに高次元の意見に昇華させる、というものの見え方で思考してみると結構面白い。
ただ、この弁証法的思考が使える大前提として、まず二つ以上の答えがテーブルの上にそろっている必要がある。ブレインストーミングなど半強制的に色んな意見を引き出そうというやり方もあるが、個人的には日常生活で生まれる自然発生的な問いに対してこの弁証法的な思考を試してみるのが良い気がしている。
というのも、ブレインストーミングなどの場では「自分の意見が正しいかどうかにかかわらず、とにかく思いついたものをあげられるだけあげる」というのが前提としてあるので、どうしてもその人は自分の意見に対する説明責任やら、自分事としてとらえる気持ちみたいなものがうすくなり、意見同士をぶつけても、あまり実になる意見は出てこないことが個人的には多い。
自分が考えた中では確からしいと思える意見同士をぶつけてみて、はじめてそこで思いもしない化学反応が生まれたりする。「みんな多様な意見がありますね」で終わらせてしまってはあまりにも無為な会話が、「なるほど、その意見の根幹にはこういう価値観があって、その意見とこの意見を合わせて考えると、こういった見え方もできますよね」というより深い議論ができると、お互いが口論になることなく、お互いの知的欲求も満たされてよりハッピーになれる方法かもしれない。
仕事をしているようで、仕事をしていない。
目の前の仕事なんて正直どうでもよい。
と思うときがある。(今日も煽り全開で記事を書いていくw)
わたしのポリシーは「とにかく目の前のことを150%で頑張って、そこで自分の納得するような結果を手に入れる」だと思っていたのだが、それとは相反するような、モットーも潜在的には持っているなと最近実感する。
正直別に、今の仕事でコケたところで死ぬわけではないし、むしろ目の前の仕事がいつかの語り草になるように、前のめりになれるだけ、なってみるか。
という楽観的な気持ちが心の奥底にはある。
わたしの敬愛するチャップリンのことばで、少し前のブログでも紹介したが、
「クローズアップでみれば悲劇だが、ロングショットでみれば喜劇である」という言葉がある。目の前で悲劇的なことが起こったとしても、それはいつか笑い話になるし、成功したことより自分の肥やしになることすらある。
映画チャップリンのオマージュが随所に現れるJOKERでの一言
"Comedy is subjective. Murray. all of you, the system that knows so much. you decide what's right or wrong. The same way that you decide what's funny or not. -『コメディは主観的だよね、マレー。ここにいるみんなはよくわかっているはずだ。君たちが何が正しくて何が正しくないかを決めるのと同じように、何が面白くて、何がつまらないかを決めるのも君たち。』- シリアスなシーンでの皮肉の聞いた一言ではあるが、映画館で見ていた私をハッとさせたひと言。
…だとすると、仕事はただの人生の暇つぶしにスパイスをくれる調味料に過ぎない。仕事で成功すれば、ハッピー。仕事で大失敗してもお金も、命も取られるわけじゃないし、首が飛ぶくらいで、別に何も失わない。むしろ攻めのスタンスで、誰かから嫌われたって自分の個性全開で、仕事をやったほうが楽しい。
「失敗しないか」「怒られないか」「誰かに迷惑をかけないか」
そんな不安はだいたい杞憂に終わる。
仮に本当に起こったとしても、誰かがやりかねない失敗を自分が率先してやってあげた、怒ることはエネルギーを使うのに自分のためにわざわざ怒ってくれた、迷惑をかけられるほど自分の仕事に影響力が出てきた、etc...無限に解釈の仕方はあるし、自分が主役のコメディで今はオチに向けた壮大な前フリが来たと思うと気が楽だ。
責任逃れをしたい。と言っているわけではなくて、仕事でプレッシャーがかかってくるようなことになったときにどうやって自分を鳥瞰的に見て、目の前のことがいかにちっぽけなことか、と思えるメンタルが、かえって仕事を、プライベートを充実させるなと思う。
かっこいい言葉でいうと、「視座を上げる」とでもいうのかもしれない。
目の前のことに固執しすぎず、そこから得られる自分へのフィードバックを大切にする。これをするためには、まずは一個のことに縛られないように、自分の仕事やプライベートの用事をできれば複数個持っておいて、それぞれ、その出来事自体に一喜一憂することなしに(一喜一憂するかもしれないがそれすらも自分の新しい感情への気づきとして)自分のコアにある価値観や美的感覚を養う肥料だと思えば、その物事自体の顛末は正直どうだってよくなる。
そういう意味ではまだまだ自分はまだまだこの涅槃の境地にたどり着くまでには道のりが長い。ただ、まだ目の前のことに一喜一憂できる若い感性があって、変に達観せずに直でいられる(いや、もうこんなことをブログに書いている時点でしているかもしれないが…笑)自分を好きでいたいなと思う金曜の夜でした。
ゼロ文脈を生きる。
「どうしてわかってくれないの」
日常生活のあらゆるところで、相手のことを理解しえないタイミングがある。
実際に言っていることと、やっていることが違う。
実際に質問していることと、答えとして求めていることが違う。
相手がやっていることの真意が理解できない。
わたしたちはこういったときに「認識齟齬が起きた」とか「共感できない」という言葉を使うが、そもそもわたしたちが前提として「分かり合える」ものと思っているからこんな風に思ってしまうのではないか、と最近考える。
大学時代の話で、最近腹落ちしたことがある。
わたしは大学時代に留学生寮に住んでいて、日本人・フィリピン人・インドネシア人・バングラデシュ人etc...と暮らしていた。国籍が違えば多少不衛生だったり、奇想天外なことが起きても、「まあこんなもんだろう」と済ませられるものが、不思議なことに同じ日本人同士だと、ほんの少しのことでお互いの仲が悪くなったり、イライラしてしまうことがよくあった。
なぜだろう?と考えてみたのだが、ここにも「お互いが分かり合える」という前提に立って生活をしているから、というのが隠されているのだと思った。お互いが阿吽の呼吸で、相手が言わなくても相手の気持ちを推し量ることができる、相手への気遣いができる、とお互いが意識的か、無意識的か感じていたのかもしれない。
こう考えてみるとわたしたちはお互いの「違い」を敏感にかぎ分けられるが、それは同時に自分たちと「同じ」人というグルーピングも無意識のうちにやっている、と言えるかもしれない。
もう少し大きな話をすれば「多様性」「ダイバーシティ」という言葉をよく聞くが、これはある意味「私たちの側」「そうでないその他大勢の人」という括りを作っているのではないかという気がする。
「あの人はわたしたちと『違う』けど、それも多様性だからね~」というのは、わたしとあなたは同じ感覚を持ち合わせているけれど、あの人は私たちとは違う、という意志表示をしている、ともとれる。この時点で「わたしとあなた」/「あの人」という大きな境界線ができてしまっていて、この境界線を「あなたとわたし」は跨ぐことなく、あくまで「あなたとわたし」がこのまま何もなく、穏やかに暮らせることを「多様性」というあいまいな言葉でぼかしているのではないかと思うときがある。
わたしが「多様性」と聞くと違和感を覚えるのはこの点にある。
本当に「多様性」を重んじているのであれば、「わたしとあなた」もどこかで分かり合えないところがあり、その「居心地の悪さ」みたいなものも含めて、一人ひとりの多様性なのではないかと思う。「わたしとあなた」/「それ以外の大勢」ではあまりにも多様性の粒度が低すぎるし、そこはあくまで自分一個人として、他の人一人ひとりとどう違うか、どこが似ているかを考えていく必要がある。
とはいえ、みんな悪気があって「わたしとあなた」/「その他大勢」という構図を作っているわけではないと思うし、きっと無意識のうちに共感性を働かせているのだと思う。
だからわたしたちはコミュニケーションをとるときは「相手の気持ちはわからない」「自分の文脈は相手に共有されていない」というゼロ文脈で接することを前提にする(=共感性を下げる)ことが必要になってきているのだと強く感じる。「わかりえないから相手とはそれ以上接しない」ではなく、「分かり合えないのが当たり前だから、それをスタート地点にして、相手を知るためのコミュニケーションを取る」ということを意識していきたい。