ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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給料が全く働くモチベーションにならない話。

「明日が給料日」が全く嬉しくない。というか何も感じない。

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…また今回も挑戦的なタイトルで始めてしまったが、わたしが常々感じていることをここで告白したい。お金がモチベーションにならない。

 

入社してからずっと「自分が働く上でのモチベーション」ってなんだろう?と考えてきたて、最近おぼろげながらその答えが見つかってきたように思う。わたしにとってモチベーションになりえるのは①知識欲 ②達成欲 ③自己承認欲 の3つで、金銭的欲求は残念ながら皆無だ。

 

なぜお金が働くモチベーションにならないか

「お金があっても買うものがないからではないか…?」

「なんだかお金がモチベーションって卑しい感じがするから、清貧思想を自分のモットーにしている節があるのではないか…?」

と考えてみたけど、どうやらそうではないらしい。別にお金を持つことに罪悪感はないし、買いたいものがないわけでもない。(他の人より物欲が少ないとは思うが…)
ただ、私にとってお金は働くモチベーションにはなりえない。

 

よく「昇進したら給料がもっと増えるよ~」とか「いい車を買えるよ~」と言われても全然ピンとこない。むしろそれをめがけて仕事すると、自分の仕事のプロセスを楽しめなくなってしまうのではないかとすら思うときがある。自分の仕事時間を金銭に換算する頭でいると、目の前の仕事そのものに集中できないどころか、その仕事での対価が自分に見合わない、と不満すら覚えるようになり、仕事が全く楽しくなくなるのではないか、と思う。

 

確かに、お金で何かいいモノを買うと一時的にはとても幸せな気持ちになれるし、お金の価値がモノとして実体化して初めてお金の価値を感じるときもある。ただ、わたしにとってそれは一瞬の快楽にしかすぎず、チャンレンジングな仕事、自分の想像力が生かされるようなクリエイティブな仕事をしたときに感じる"歓喜"にはかなわない。

 

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ーぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代わりに”歓喜”という言葉を使う。危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決するときに人間は燃えあがる。それは生きがいであり、そのときわきおこるのがしあわせではなく、”歓喜”なんだ― 岡本太郎『自分の中に毒を持て』

 

わたしは仕事するのが苦ではないからこそ、こんな風に思うのかもしれない。わたしにとってもし仕事が苦行なら、確かに仕事はお金を稼ぐための手段になると思うし、全くそれがおかしなことだとは思わない。

 

馬の鼻先にニンジン。では頑張れない。

ただ、わたしにとって「お金のために頑張る」はいわば「馬の鼻先にニンジン」に等しく、走ること自体が楽しいはずの馬が、生きるための食料としてのえさを求めて必死に走るようなものだ。私の場合、別にエサを置かれてもなんとも思わないので、エサを置く側からするとちょっと拍子抜けするかもしれないが、そういう人もいるのだということをわかってほしいなと少し思うときがある。

 

わたしにとっては「チャレンジングな仕事」「何か新しい知的な発見がある仕事」「何か自分の想像力を生かしてモノを生み出せる仕事」が一番の仕事のモチベーションだ。

 

一人で考えるプロセスが楽しいし、仕事仲間と協力して一つのものを作り上げるプロセスも楽しい。最終的に自分たちが考えたアイデア・思いが一つの形になり、お客さんや上司の手にわたって、その人をハッピーにさせられたら、もうそれ以上何も言うことはない。誰の役に立たない仕事なんてないけれど、それでも自分がその人の役に立てたことが肌感覚でわかる、手触り感のある仕事はより一層やりがいを感じる。

 

逆に言えば、自分にとって何も新しい発見がなく、誰をハッピーにさせているわかからないような類の仕事は、どんなにお金をもらってもやりたくないし、もし会社で上に上がることがそういう類の仕事もこなさなくてはいけない、ということなら、わたしは喜んでその会社を辞めたい。

 

誤解してほしくないのは、わたしはお金のために働くことが悪だとは思っていない。働く理由は人それぞれで、そこに多様性はあってしかるべきだと思う。ただ、せっかく1日の多くの時間を仕事に使うなら、少しでも楽しめる仕事に就いたほうが働くプロセスも、その対価として得られるお金にも満足できるはずなのではないかと思う。せっかく働くのであれば、自分も一緒に働く人もその働くプロセスを楽しみたいし、「楽しもう」と思うマインドの人と仕事ができると、より一層楽しい。

 

仕事は終わりのない、RPGゲームだ。

仕事は私にとってある種の「RPGゲーム」だ。色んな才能を持った人たちとパーティーを組んで、スキルを磨いて、レベルアップしながら、道中で色んな敵に遭遇しながら、クエストを達成していく。このゲームにはクリアはなくて、絶えず新しい人たちと出会い、パーティーを組みなおし、また次のクエストを達成するための準備を進める。

 

最初っから所持金MAXで能力値MAXなゲームなんてクソゲーだし、そんなチートだらけのゲームはやる価値がない。むしろ限られたお金と能力値の中で、とてつもない強敵を倒すためにレベルアップしていくプロセスこそ二ゲームの面白みがある。目の前のクソゲーに思えるような雑用も、大きな目で見たら、もっと大きな敵を倒すためのルーチンワークなのかもしれない。敵を倒している最中に「今いくら所持金が増えているか」なんて気にするプレイヤーなんていないだろうし、全員が敵を倒すことに夢中になっているから連帯感が生まれて、敵を倒したときの達成感も一段と大きなものになる。

 

会社の中で、自分が勇者なのか、賢者なのか、はたまた魔法使いなのか、自分のロールはまだ固まり切ってはいないし、まだまだ大きな敵は倒せないけれど、だからこそ毎日のクエストでレベルアップしていきたいし、パーティに少しでも貢献できるような成果を残していきたい。さてさて、来週からもガンバロウ。

 

 

やはりSEは「コミュ障」では慣れないと思った話。

SEほど「ことば」を使い分けなければいけない仕事はない。

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…タイトルも見出し文も煽りみたいな文章になってしまった。

別にわたしは他の職種を経験しているわけでもなく、SE歴もたったの1年程度(しかもコードを書いているのは合計でも2か月程度)なので、新卒新米SEのぼやき程度だと思って読み飛ばしてほしい。

…最近、やっと、企業向けのシステム構築=システムインテグレーション(SI)というものが何たるかということを経験ベースでわかるようになってきたと思う。就活時代には、SIの伝統的なサイクル(要件定義、基本設計、詳細設計、開発、テスト、運用・保守)というものを用語としては理解していたものの、それを自分の働き方に置き換えてリアリティあるものとして考えることはできていないなかった。

 

システムインテグレーションってなんだ

私のざっくりとした理解だが、SIは次のようなフェイズで進んでいく。

 

要件定義

まずはお客さんの潜在的なお困りごと・ニーズを引き出し、整理し、その解決策の一つとしてのシステムの全体像を決めるのが要件定義フェイズ。

 

基本設計・詳細設計・開発

その次に、システム全体像から、個別具体の機能に落として考えるのが基本設計フェイズ。この設計書が、開発者と技術者の懸け橋になって、それを詳細設計・開発フェイズで実際の機能開発に落としていく。

 

テスト

機能開発が終わったら、テストフェイズが待っている。お客さんがシステムを実際に触るうえで正常に動くシステムか、使っていてストレスを感じないシステムになるかetc…を厳しくチェックしていく。

 

保守・運用

テストが終わるとシステムを実際にお客さんに使ってもらう。この保守・運用フェイズでは、日々使っていくうえでよりお客さんにとって使い勝手の良いシステムに改善するために追加で開発を行ったり、システムで不具合があった際の障害対応などを行う。

 

以上がわたしの知る限りのざっくりとしたシステム開発の流れである。このSIの過程において、作る機能が巨大化・複雑化すると、基本的には、その分開発する人数も増えていって、その分コミュニケーションにかかるコストも増える。

 

開発におけるコミュニケーションってなんだ

コミュニケーションというと、お客さんとの折衝・社内での報連相など言葉を介した、対人コミュニケーションが真っ先に思い浮かぶが、わたしは設計書・プログラミングすらも一種のコミュニケーション手段だなと最近思う。

 

というのも、大規模開発であればあるほど、同じ機能でも設計者・開発者・テストシナリオ作成者・テスターが違う場合があり、自分とは文脈を共有していない人とのコミュニケーション手段にもなりえるというのが理由だ。

 

自分が書いた設計書・プログラミング・テストシナリオが自分の意図せぬところで読まれ、それをもとに開発・別のプロジェクトで再利用されることがある。たとえ、自分が設計・開発・テストまで全部やったとしても、その過程で生まれた設計書なりプログラミングコードが、自分のあずかり知らぬところで読まれていることがある、ということを肝に銘じておかないと、社内から突然問い合わせが殺到する、という事態になりかねない。

 

こうしたリスクを回避するためにも「誰にとってもわかりやすい設計書・コード」を書こうという心がけが必要だと最近しみじみ思う。

 

ともすると、プログラミングは独りよがりな作業になりがちだと思う。
書いている人の「わからない/わかる」の境界線が、読む人の「わかる/わからない」とか限らない。その前提を無視して動くものを作ればよい、という意識で書いていると間違いなく失敗する。これは文章もそうだと思う。

この文章を読む人は誰か、読む人はどんな知識・背景を持っているのか、どんなシチュエーションでこの文章を読むか、というところまで想像を膨らませて書かないと、独りよがりな文章になってしまう。(もしかしたら、すでにこのエントリーも、何言ってんだこいつ???状態になっているかもしれない。先に謝っておく)

 

会社のボランティア活動からの学び

ちょっと余談になるが、最近、ボランティアで高校生や社会人の方向けに、生意気にもプログラミングやマーケティングについて説明する機会があり、そうした場でもやっぱり相手への思いやりを持ったコミュニケーションの重要性を身に染みて感じる。

 

ただ、インプットすべき事柄を1から10までを懇切丁寧に網羅的に説明すればよいというものでもなく、相手の頭の中を想像して、何が一番その人にとって記憶に残っているのか、何がその人の好奇心を刺激するフックになるのかを考えて、臨機応変に説明の仕方を変えていかなければならない。これがうまくいけば、1から10まで説明しなくても、その人自身がもっと自分で調べてみよう、と勝手に10、100とキャッチアップしてくれたりする。逆説的ではあるのだけれど、1-3くらいの知識で、相手の興味をそそる伝え方をしたほうが、一度に10伝える以上に効果的なのではないかとすら思う。

 

こうした教える・伝えるスキルというのはもともとの「地頭の良さ」というより、「経験」がものをいうのだろうな、と個人的には思う。むしろ地頭が良い人ほど「相手がなぜわからないのかわからない、何をわからないのかわからない」という壁にぶち当たるではないかとすら思う。

 

そういう人こそ、そこからさらに思考を進めて、「自分が言っていることは10%くらいしか伝わらないかもしれない」というネガティブな見方に立って、とにかくあの手この手を使って、相手が腹落ちしてくれる方法を探る中でしか、こうした教える・伝えるスキルは磨かれないのではないかと思っている。

 

「わたしさえよければいい」「わかる人だけわかればいい」では絶対回らない。

…話をシステム開発に戻すと、システム開発においても、誰向けに、どんなやり方で、何を伝えるのか、という視点は必要不可欠だと思う。小さなアプリ開発であれば自分ひとりで完結できるのかもしれないけれど、システム開発は多くの場合で団体戦だ。

自分のことだけでなく、どうしたらチームの回りがよくなるか、どうしたら自分以外の人の負担を減らしてあげられるか、という全体最適の視点に立って、チームメンバーとのコミュニケーションをしていきたい。

 

もちろん自分の目の前のことに手いっぱいで、他人のことを考えている余裕はない、というときもある、というか、今はそっちの方が多いかもしれない。

 

でも、だからこそ、自分が後輩に対して何か伝える・教えるときには、その後輩の気持ちに立ってコミュニケーションを取りたい。自分がやったことのないこと、知らないこと、得意でないことに直面した時に焦る気持ち、自分を責めたくなる気持ちが痛いほどわかるし、そういうときの上司の「なんでこんなこともわからないの」という態度を感じた時には消えてしまいたくなる。

 

でも、少し見方を変えれば、相手の伝え方がよくない可能性だってある。理解力は人それぞれだし、その人がその時に出せる100%を出しているなら、「なんでこんなこともわからないの?」という詰め方をするのは、無意味なプレッシャーを与えるだけで決してパフォーマンスが上がるやり方ではないと思う。(ドMな人に厳しい言い方をして、より成果を引き出すというやり方もあるが、そのアプローチが通用するのは本当に極意一部な気がする)

 

…そして間違っても「わかる人にだけわかればいい」「わからない人は知らない、才能・センスがない、あの人は向いてない」と、すぐに決めつけて、その人と向き合わずに簡単に切り捨ててしまうような人にはなりたくない。

 

そのプロジェクトに入る人全員が、必ずしも要件定義・設計・開発・テストそれぞれのフェイズで得意なことをやっているわけではないのだから、やっぱりそこも加味して、その人がそのときの100%を出せるようなコミュニケーションをしたい。

 

今はまだ自分のことで精いっぱいではあるのだけれど、ここまで書いてきたような態度で仕事に臨まないといつかそういう上司になるんだろうなという恐れもありつつ、戒めもかねて、書いてみた。

 

書きたい事が無限に出てきて、タイトルと最終的な着地点が全く一致しなくなってしまったOTL

 

プログラミングもコミュニケーション手段の一つ。

コミュニケーションするときは相手の立場に立って、臨機応変に伝え方を変える必要があること。

システム開発団体戦で、自分ひとりの作業でも全体最適の視点で仕事をすることが大事だということ。

いろいろと考えた夜でした。おやすみなさい。

 

 

 

 

中高ガリ勉、大学またガリ勉。そして生まれたガリ勉哲学。

何で自分はこんなに不器用なのか。

 運動オンチは思わず共感! 「運動神経悪い人」涙と笑いの“あるある”10選 ...

わたしは自分で言うのも憚られるくらい運動音痴だった。
だからこそ、勉強では負けたくない、という一心で学生時代は頑張ってきたのだけれど、その勉強ですら、どう頑張っても勝てない人が周りにたくさんいた。

 

スポーツもできて、勉強もそつなくこなせる人が中学や高校では羨ましかった。
そういう人が中高では人気者だったし、大学生になってからも大学デビューなんてしなくたって中高でつけた自信(?)のおかげで、やはり話題の中心にいたように思う。

わたしはというと、大学受験で勉強しすぎて(?)燃え尽きてしまったこともあり、大学一年生は本当にゴミクズのような生活を送ってしまった。授業には出ない、家に引きこもってゲーム、アニメ三昧の毎日で、単位もちらほらと落とし、なぜかこれぞ大学生とむしろ誇らしげな気持ちでいた。

 

でも大学に入ったら留学はするぞ、とそれだけはずっと大学に入る時から決めていたから、英語の勉強はコツコツやった。ただ留学するにはGPAが足りなかった。「このままだと留学できない」焦りに駆られたわたしは、またガリ勉になった。

 

ずっとガリ勉だったこともあり、ガリ勉モードになるのは早かった。ただ、なんだか努力している自分がカッコ悪かった。「努力したって、ダメなものはダメだし、それなら適当にやって、そこそこの結果を残したほうがカッコいい」と思っていた。中学、高校で勉強しても勉強しても、自分より勉強できる人がいる、という現実に直面していたこともあって、ひねくれた価値観が出来上がりつつあった。

 

だからガリ勉モードに入った、とは言いつつも影に隠れてこそこそと勉強した。
授業で携帯をいじったり、内職したり、全然授業に集中してないふりをして、
実はその授業の内容はすべて予習済みで、授業後の成績につながる質問票にはびっしりと質問を書いた。でも、友達には「いやーあの授業だるいよなー、いっつも話聞いてないわ」と謎のサボってるアピールをした。今考えるとくそダサい。

 

「エコに頑張って、結果を出すのがカッコいい」

この価値観を吹き飛ばしてくれたのは留学だった。留学したのは、通称『マレーシアの東大』といわれるマラヤ大学で、宇宙人のように頭のいい連中しかいなかった。英語もあまり話せない私は完全に落ちこぼれになった。授業では指をさされても、もごもごと訳の分からない英語を話すだけで、周りからは「あいつ大丈夫かよ…」という雰囲気がいつも漂っていた。

 

「ここで頑張らなきゃ、自分が今ここにいるアイデンティティがなくなる」
国から奨学金ももらっていたし、親にも1年留年することを許してもらい、
せっかくここまできたのに、ここで頑張れなかったら一生後悔する。


そう思った私は、またガリ勉になった。日本人と日本語で話すのすら億劫だったので、
日本人の多い留学生宿舎から飛び出し、フィリピン人学生4人とアパートを借りて、そこで英語漬けの毎日を送った。

 

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大学までのフリーシャトルで毎日大学との行き来をした。
大学が広すぎてどこに行くにも車がないと移動できなかった。

 

朝起きて授業の予習をして、授業に行き、帰り道のバスでは英語のポッドキャストを聞き、家に帰ったら夜の25時くらいまで、次の日の予習と、その日の復習。休日は、同居人のフィリピン人学生と映画を見に行った。(音声は全て英語で、字幕も中国語・マレー語だったからほとんどわからなかったけど)

 

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フィリピン人のルームメイトと、大学前での記念写真。運動神経が悪い人のジャンプだと一目見ればわかる


英語の発音が悪かったり、相手の言っていることが全然わからなくて笑われたことも、たくさんあったけれど、むしろ日本にいたら自分は「エコに頑張る」精神で英語と生半可な気持ちで向き合っていたのだろうと考えると、馬鹿にされて、なにくそと思って頑張れるくらいがちょうどよかった。

 

だんだん私は、もう他人の目など一切気にならなくなった。頑張って誰かに勝てるとか勝てないとかそんな話ではなく、もう自己満足の世界だった。そして、何より勉強することが、努力することが楽しかった。「エコに頑張る」なんて言葉はもう私には存在しておらず、時間の許す限り、自分のやるべきことに、やりたいことに時間を割こうと決めた。

 

セメスターの終わりには授業で最優秀プレゼンにも選ばれて、もう順位なんてどうでもよかったのだけれど、それでも自分の頑張りが教授に見てもらえていたのは、言葉で言い表せないほどうれしかった。

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「The sky is the limit」(物事に限界はない)

そのとき教授が自分にこんなメッセージをくれた。
自分の限界は他人との比較の中で決めるのではなく、自分では考えられないほど空高いところにしか限界はない。今でもしんどいときにはこの言葉を思い出す。

 

…留学中の10か月は本当にあっという間だった。それからというものの、長期インターンも、仕事も、とにかくやることなすこと自分が満足するまでやり切ることに決めた。別に中高と比べて、物覚えがよくなったか、要領がよくなったかといわれるとNOだけれど、自分の中での『哲学』みたいなものはガリ勉生活で育まれたと思う。

 

とにかく自分を追い込めるタフなところで頑張る。
エコに頑張らない。他人のことが気にならないくらい、わき目もふらずに没頭する。
何より自分が今やっていることを楽しみながら、やり抜く。
その中で自分のセンスを磨いていく。

 

なんだかこうやって書くと昭和のモーレツサラリーマンみたいだが、実際そうなのかもしれない。ホワイトに働く、なんて1mmも考えたことないし、ワークとライフがバランスなんてしてない。わたしにとっては、勉強も、仕事もワークであり、ライフで、別に仕事でなくても、趣味でも、勉強でも、突き詰めてやることがライフを充実させるためには大事だと思っている。

 

いざこうやって書いてみると留学の時の熱がまたよみがえってくる。
今の自分は、あの時の自分に恥じないくらい、ガリ勉か。

だいぶ暑苦しい文章になってしまったけれど、たまにはこうやって昔のことを思い出してみるのもいいなと思った。また明日からもガンバロウ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ことばを尽くすこと。

相手に伝わる言葉で話すのは簡単なようで、難しい。

2010-12: 熱いねこは太鼓と写真が好き Hot-Cat loves congas and photos

専門性があればあるほど、そのことばで話したくなる。
それはいつもの癖で慣性的にそのことばを使ってしまう場合もあれば、
むしろ自分のほうが相手の知らないことを知っているというマウンティングで使ってしまうような場合もある。

 

カタカナ用語、専門用語で相手をやり込めるのは簡単だ。
特にIT業界・コンサル業界ではあるあるなのかもしれないが、とにかく訳のわからないカタカナ用語が触れる機会が本当に多い。

 

確かにその組織の共通言語や、専門的な技術者同士がわかり合うための言語は必要だとは思うが、あくまでそれはお互いの『スムーズな意思疎通』を目的として使われるべきものであって、相手に「え、それどういう意味?」と思われた時点で全く逆効果になっていることを忘れてはいけないと思う。

 

ただ、同じ組織・コミュニティの中にずっといると、自分のつかっていることばがどれだけ特殊なものか、他の業界の人たちに伝わらないものなのか、ということばの中立性がどんどん失われていくような気がしている。

 

だからこそ、専門職であればあるほど、その知識を外に向けて、誰にでもわかるようなことばや、かたち(動画や写真)に変換して、時には比喩なども使いながら説明することが必要だと最近切実に感じる。

 

幸運なことに、今働いている会社ではそういった自分とは全く違うバックグラウンドを持つ人と話したり、説明したりする機会が数多くある。

 

小学生、中学生、高校生、大学生、会社の同期・先輩・上司、学校の先生、都市部の大企業や地方企業で働く社会人の方々、それぞれ全く違うバックグラウンドを持つ人たち。

 

世代も働く場所も環境も全く違う人たちとコミュニケーションをとるのにはいつも苦労するけれど、それでも相手に『伝わった』という感覚が得られた時はとても充実感があるし、もっと自分のことばを磨いていきたいなと思う瞬間でもある。

 

専門性を極めることももちろん大切なことではあるけれど、それが自分をその業界に縛り付けておくための鎖にはしたくないと思う。

 

むしろ特定の専門性があるからこそ、その専門性で物事を色眼鏡をかけてみていないか、新鮮さを感じる心・柔軟に考える力を失っていないか、と自分に謙虚になり、常に誰にでもわかることばを話せるように心がけていきたいと思う。

 

なんだか陳腐な言葉で書き連ねてしまったけど、これはともすれば自分がカタカナ、専門用語大好きマウンティングおじさんになってしまう前に、戒めとして、ここに残しておきたいと思う。

チンパンジー型競争社会に思うこと。

チンパンジーボノボ、オランウータン、ゴリラ。

…わたしはチンパンジーだった。

研究用チンパンジーはデジタルベースに | Nature ダイジェスト ...

自分がどの類人猿に近いかを診断してくれる自己分析ツール。

…何の話をしているかというと、自己分析ツールの一つである、類人猿診断をやってみた結果だ。この診断をやるにつけ、最近思い悩んでいることがふと頭に浮かび、その整理もかねて、今日はブログに書こうと思った。

 

まず、はじめに類人猿診断の説明をしたい。

類人猿診断は診断する人を「感情を表に出す人か否か」「成果を求めるか、安定を求めるか」の2軸で4つのタイプに分類するツールである。たった5つか、6つの質問に答えるだけで、自分のタイプを診断してくれるのでぜひやってみてほしいと思う。

http://yakan-hiko.com/gather/

 

わたしの診断結果である「チンパンジー」は以下のような特徴がある。
・リーダーシップを取りたい

・勝ち負けをはっきりさせて、自分がその競争の中で勝ちたいと思う

・思い立ったら即行動

…これは少し意外な診断結果だったが、当てはまる節がないわけでもない…。
競争の中で勝ちたい、結果を出したい、というのはここ数年で自分の体験の中で
強化されてきた部分で、何かやるからには結果を出したい、というところから転じて、
「競争するなら、良い結果を収めたい」という思考が自分の中にも多少なりとも
あるだと思う。

類人猿診断を使ったキャラクター制作で ブランド共感型のコンテンツを ...

記事の後半では、このチンパンジー的性質は社会にも実装されている、というような少しマクロな見方で、いま目の前に起きていることを整理していきたい。

 

チンパンジー型』競争社会

この手の自己分析ツールはごまんとあるのだけれど、人間だけでなく生態系全体を取り巻く『競争』『弱肉競争社会』をとらまえる上で、とても面白いツールだと個人的に思った。

 

社会人1年目も終わり、2年目に入るにあたり、最近ひしひしと感じることは「会社という器に属する以上、『競争』は避けられない」ということだ。何を今更、という感じだが、実際社会人になるまではそこまで意識しなかったことが、今になって残酷な現実として目の前に突き付けられているような、そんな感覚にある。

 

少し生々しい話になるが、自分の仕事の成果がどのくらいか、同期・先輩含め全員が同じ物差しの上に並べられ、誰が誰より成果を出しているか、それが評価につながるという人事評価制度の上で、自分が測られる立場になり、戦々恐々としている。

 

先述したとおり、わたしはこのような競争は嫌いではない…らしい…。

「らしい」と書いたのは、自意識の上では、「競争は好きではない」と思っていて、特に競争なく生きていけるなら、そう生きていたい。ただ、今働いている自分を客観視したときに、少なからず他人と比較している自分がいるわけで、画一的な物差しで自分の立ち位置を測りたくなる、チンパンジーな自分がいることも否定できない。

 

…ただ、これは程度の問題こそあれ、誰もがチンパンジー的DNAは持ち合わせているのではないかと個人的に思う。特に自分が競争の真っただ中に曝されるような場面では、チンパンジー的な側面が発露しやすく、お互いがお互いの『順位』を意識せざるを得なくなってしまうのだと思う。

 

「競争」には、デメリットだけがあるだけではない。お互いが同じ物差しの中で切磋琢磨し合うというスキルの向上がみられる、というメリットもある。特に、経営者、管理職の立場に立った際に、従業員の働く意欲を刺激し、それぞれの働く動機付けを行えるという意味において、とても合理的なシステムである。

 

『生き残り』(別に負けても死ぬわけではないが)をかけた競争では「一番になりたい」「一番下にはなりたくない」と本能的に思うわけで、それが働く意欲をドライブさせる。管理する側としては、その構造を作りさえすれば、たえず当事者間では意識的・無意識的に競争が行われ、その結果がチーム、ひいては会社の業績にも正のフィードバックを与える、ということだろう。

 

このような競争社会において、チンパンジー的性質が強く出る人は、ある程度厳しい競争にさらされても、そのマッチョな精神力と行動力で生き残れるのかもしれないし、なんなら、自分の能力を証明するためにも、さらなる競争に飛び込んでいく勇敢さがあるかもしれない。ただ、ピラミッド型の組織において、誰もが競争の末に、そのピラミッドの頂点にいけるわけではない。

 

…ということを考えるにつけ、最近、自分が本当にこの競争社会において、そのチンパンジー的獰猛さを発現させて闘えるか、あるいは闘いたいか、ということがとても疑問に思えてきた。

 

 

自分はそこまで獰猛にはなり切れない。というか、それを追い求めて、最後に残るのは空虚さではないか、と、競争に身を投じながらも、自分がどうしたらこの競争のスパイラルから抜けられるかを最近しみじみと考えてしまう。

 

(※ただちにこの競争から降りるという、白旗宣言ではない。というよりは、自分がこの競争にあと何十年も時間とエネルギーを投下できるか、というのが甚だ疑問ということだ。1年スパンでやってくる評価時期に合わせて、自分がその動き方を決める、というのは全く本質的ではないと思うし、もっと長期スパンでの方向性を探るためのノイズになりえると思う。)

 

わたしたち、チンパンジーの無意味なマウンティングから脱出するために。

別にこの競争、というのは会社の中だけで起こっているわけではなく、社会のあらゆるところに存在するものだ、ということを最近しみじみと感じる。給料、学歴、人脈、知識量、乗っている車、身に着けている服、付き合っている彼氏/彼女のスペックetc…。

 

学生時代の自分はもっとピュアに物事を考えられていた。

「やりたい事を追求するためには、やりたいことに近づけるスキル・経験を得るためには、どこで働いたらよいか」

「自分の能力が生かされ、それが最後、誰かを笑顔にできて、自分も一緒に働く人も、エンドユーザーもHappyになれる仕事は何か」

 

今でも会社はこれらの一種の理想を追求するための器、という意識には変わりはないものの、「競争」というがここまでに自分にとっての強烈な『重力』になるとは思いもしていなかった。

 

この『重力』に身を任せて、慣性的にからだを動かしていくにつれ、いつしかその重力すらも感じなくなり、競争という重力空間でトップに立つことが目的になってしまう、ということがわたしにはとてつもなく怖いことだ。

 

わたしはこの重力に打ち勝つために出した暫定的な答え。わたしは、自分で自分の『重力空間』を作ることしかないと思う。それはその重力の中で、新たなマウンティングを生むような類のものではない。むしろ他の重力空間とは断絶された、自分たちだけの世界観を作り上げることで、他の世界からのノイズを感じることなく、自分たちの目標に向かって、からだを動かしていくこと。

 

もっと手段レベルで具体的に言えば、それは会社外で自分のスキル・経験が還元できる、少人数のコミュニティや組織をつくる、参画することがひとつ。そして、もう一つは今いる重力空間の中でも、重力を意識しなくてもよい、自分だけの世界観を作れるような仕事を小さくてもいいから続けていくことだと思う。もし、自分の世界観が受け入れられない、もしくは自分がこの重力空間で必要な体の動かし方が完全にわかった、となったときがここから脱出するときだと思う。

 

ちょっと長くなったが、最近のモヤモヤを少し、言語化してみた。

 

これから先、もっと厳しい競争社会が待ち受けているかもしれない。ただその競争が有む強烈な重力空間に身を委ねすぎることなく、むしろその競争から生まれる自分のモチベーションを利用して、自分の非チンパンジー的な世界観を確立していきたい。

p.s. これって、資本主義の前提が競争なのだとすると、どうやって資本主義から脱却していくか、という話になっていくと思うのだけれど、それはまた何となく頭の整理がついてから書きたい。

「我思うゆえに我あり」思考。

『我思うゆえに我あり。』(Je pense, donc je suis
高校の倫理で習ったデカルトのことば。

3月31日 はフランスの哲学者 ルネ・デカルトの誕生日。 | 青木孝文 ...

哲学者デカルトが、この世における、疑いようのない、絶対的な真理は何かというコムズカシイことを考えた末に見出したのがこのことばだそう。

 

この世に存在する(と認識できる)全てのものを差し置いて、考えている私自身、という自意識だけはその存在を否定しようがない、という意味のことばらしいのだけれど、そんなことより、デカルトがこのことばにたどり着いたプロセスに学びがあるなと思った。

 

デカルトの、「それは本当に真理に到達しているのか」という問いを続けること、もっと言えば、自分の中の問いすらも、本当の問いなのか、常に自分の問いに批判的な見方を持ち、自分の中での内省を深めていくこと。これは「思い込み」を抜け出すうえで大事な思考法だなと思った。

 

仕事の中では与えられた問いに対して一直線に答えを出すこと、あるいはその答えにバリエーションを出すことは考える。一方で、その問いについて疑いの目を向けることは意外と少ない。仮にその問いに疑問を持つことはあっても、「その問いは間違っているのではないか?」という反証に終わることが多いように思えて、「その問いはなぜ発せられたのか」というところまで関心がいかない。

 

与えられた「問い」だけではない。内省する中で生まれる「問い」について、その自分をさらに客観視して、「なぜそもそもそんな問いが生まれたのか」には意識がいかない。

 

例えば仮に「この仕事を全うするためにはどうしたらよいだろう」という問いを自分の中で立てたとすると、直感的に「これが確からしい」と思う問いの答えや、「いや、このやり方もあるのではないか」という別の答えが論理的に導き出せたとする。もしかすると、その答えがすぐには出せず、次の日に持ち越すこともあるかもしれない。

 

「問い続ける」ことで、結果的にその問いそのもの自体は「解決されるもの」と自分が考えるようになり、それがやがて「思い込み」につながる。「仕事で結果を出すためにはどうしたらよいか?」→「仕事で結果を出さねばならない」、「結婚するためにはどうしたらよいか?」→「結婚しなければならない」といった類のものだ。(この例が浮かんだ時点ですでに自分もその問いに囚われているのかもしれない)

 

この思考から抜けるためには、一度「問い」自体を問うてみることが処方箋になるのではないかと思う。なぜその問いを今、自分は問うているのか。(そもそも自分の中で問いを立てているということを客観視できているということは、自分の脳のリソース、精神的・時間的余裕があるということなのだから、とてもぜいたくなのだ、とポジティブに解釈してみたくなる)

 

この思考を続けると、最終的には「なぜ自分は問いについての問いを立てているのだろうか?ということを問うているのだろうか?」(以下無限ループ)と深淵の世界に入っていくので、ある程度のところで思考を止めたほうが良いかもしれない。

 

なぜ金曜日にこんな投稿をしようと思ったのか?と最後自分に問いかけたくなったのはなぜか?(哲学者気分を味わいたくなったのか?しかもそれをブログで?なぜ?)ということをあと小一時間考えて、寝ることにする。

旅行の楽しみ方。

旅行は楽しい。

一人で行く旅行も、誰かと行く旅行も違った楽しみ方がある。

 

一人で旅行に行く場合は、目的地だけ決めて、あとはその旅路を楽しむ、

というのが好きだ。スケジュールを限界まで詰め込んでみる旅、

何も決めないで他だ彷徨う旅、いろいろなスタイルの旅行をしてみる中で

ゆとりをもって旅行する旅が好きなのだというのが暫定的な結論。

 

スケジュールを詰め込みすぎると、そのスケジュールを完遂することだけが

目的になってしまって、その場その場の偶然の出会いを楽しめない。

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セレンディピティ(=偶然の出会いに幸運をつかみ取ること)ということばがあるが、まさに旅行はその場、その時の偶然との出会いこそが醍醐味だとおもう。

 

思えば、自分のこれまでの生き方も、偶然の出会いの積み重ねだったような気がする。
もちろん計画的に事を進めたこともあるが、振り返ってみて、あの時やっておいてよかったと思うことは、だいたいその場の直感で動いたことだと思う。

 

行く目的地を仮で決めておくこと。その旅路で起こる人やものとの偶然の出会いを楽しむこと。目的地が変わってしまっても、ひるまずに、振り返らずに前を見ること。

一人旅には人生の縮図が現れる、というとちょっとおおげさかもしれないけど、
同じ場所に行くとしても、その人のにおい、ストーリーが現れるのがおもしろい。

 

誰かと一緒に行く旅行はどうだろう。

これもまた別の楽しみがある。一人でいる時よりは自分やその土地や空気感を
味わう、対話する、という時間は少なくなる。

それでも、とても月並みなことばだけれど、一緒に行った人と時間そのものを共有している感覚になれるのが好きだ。

 

旅行の日程を立てる。ドライブする。お昼ご飯を食べる。観光地を巡る。

極端な話、行先はどこでもよかったりする。何もない辺鄙な土地にいったとしても、

そこに会話が生まれて、一つのエピソードになる。

普段とは違う場所だからこそ、
お互いの知らない一面を知れるというのもある。
見ている風景、食べている食事、入るお店、お金の使い方、時間の使い方。

どれを切り取ってもその人の個性が現れる。
いちいちお互いの感覚を口に出さなくても、なんとなくわかる。

 

ということがお互いにわかっているからこそ、自分のような内向人間は
誰かと旅行するときもエネルギーがいる。でもそれは「たのしくない」わけではなく、
ただ単純に「ひとりになれる時間が必要」なだけだ。

 

どこまでいってもおひとり大好き人間なわけだが、旅行というディープな体験を通して、一緒に行く人の目線を知れたり、自分自身の社会的なふるまい方みたいなものが、研ぎ澄まされていくような、そんな感覚がある。

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こうやって、旅行について抽象的に考えていくにつれ、これから先、
もっともっとディープな旅行をしてみたいなとおもう。

旅行にいく、といってもまずどこを目指すか、何をするか、というサイコロを振るタイミングで、ひとりだとある程度出目が決まってしまう。

 

自分ひとりでもそのサイコロの選択肢を広げられるように情報のアンテナを高くしておくことも大事だが、知識を詰め込んだうえでいく、計画的な、予定調和な旅行は楽しくない。

 

自分の知らない場所、自分の知らない感覚・考え方を共有し合える人と、偶然の出会いを楽しむ旅行に出かけたい。