ホモサピエンス日誌。

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「マズローの5段階欲求説」で就活の目線が変わる話。

皆さん、こんにちは。現代のホモサピエンスことかとけいです。

だいぶ間があいての更新になってしまいました。

 

最近はおかげさまで、長期・短期インターンシップの面接、トビタテ報告会の準備、就活に向けた情報収集など忙しくさせていただいております。

 

これからしばらく就活に関連したことを発信していきたいと思います!

とはいえ、私の性格上、結局学問チック(『衒学的』(げんがくてき)っていうらしいよ!)になるかもしれませんが、その辺はご了承ください。

 

 

 

就活準備期のホモサピエンスは、考えた。

さて今日はそんな就活生予備軍の私が、就活においてある仮説を一つ立てました

私変人なので、考えなくてもいいことを取り留めもなく考えてしまう性格なんです。

 

「まあこんなこと言っても『で、だから何なの?』と言われるだろうな・・・」と落胆していたところ、なんと偶然にも最近読んだ本でその仮説について明文化しているものがあり、ひとり興奮しました。

 

今回はそんな私が立てた就活における一つの仮説について、次の本に書かれていることも交えながらシェアしたいと思います。

 

上位1%のスーパーエリートが実践する27の法則

上位1%のスーパーエリートが実践する27の法則

 

 

若干胡散臭いタイトルではありますが、なかなかその中身は参考になります。

 

その中で自らの仮説を証明するかのような一文がありました。

アブラハム・マズローの「欲求段階説」を使えば、働き方がわかる』

 

 

 

さてこれはどういう意味でしょうか?

 

 

 

何のために働くの??

まずは簡単な質問から始めましょう。

 

「なぜ私たちは働くのでしょうか?」

 

 

お金を稼ぐため?

自分一人で生きていくため?

家族を養っていくため?

大企業に入って周りの人に認められるため?

それともやりたいことを会社で実現するため?

社会の役に立つため?

 

どれも正解だと思います。

そしてそのどれもが互いに矛盾せず、なおかつ独立した要素です。

 

「あれ、この『生きる意義』みたいなの、どっかで見たことあるぞ・・・。どこだっけ・・・。・・・そうだ!マズローの五段階欲求だ!」

私はさっそくググりました。

 

Google大先生の検索結果によるとこの五段階欲求説は次のように解説されます。

欲求段階説(よっきゅうだんかいせつ、Maslow's hierarchy of needs)とは、アメリカ心理学者アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。これは、マズロー欲求段階自己実現理論とも称される。

ピラミッド状の階層を成し、マズローが提唱した人間の基本的欲求を、高次の欲求(上)から並べる。

                       (Wikipedia自己実現理論より」)

 

つまり、大きくとらえれば「働く」ということも、欲求を叶えるための一つの手段であるといい言い方もできます。一体私たちはなぜ働くのか?それは私の心の中にある何かしらの欲求を満足させてあげるためであるとマズローは言っています。

 

それは生きるためか? (生理的欲求

それは安全を保障するためか? (安全の欲求

その集団に所属して愛を受けるためか?(社会的欲求

誰かに認められ、評価されるためか? (承認欲求

自分の能力を最大限発揮し、自分のやりたいことをやるためか? (自己実現欲求

 

 

さらにマズローは晩年、この欲求の上に次の段階があると発表しました。

それは自己超越の段階です。

簡潔に言えば、「他者の奉仕のために自らを忘れ、地球全体に目を向け、物質的なものによる満足を忘れる段階」のことだと僕は解釈しています。

 

つまり、「自分という存在を差し置いて、世界中のすべての人に身をささげるような 努力ができる」段階において、その人は自分という存在を「超越」したと言えます。

 

上に述べてきたことを図にするとこんな感じです。

 

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「何のために働くか?」改めて考えてみる。

さて、もう一度私たちがなぜ働くのか考えてみましょう。

繰り返しますが、この問いに答えはありません。

 

この図に当てはめるとあなたの働く目的がどんな欲求か来ているかわかるかもしれません。

 

私個人としては、「どの欲求が欠けていてもいけない」と考えています。

 

私自身は「自分の出せる力が精いっぱい出せる職場で、自分のやりたいことをやる」という自己実現欲求が強く、その思いが強すぎるあまり「他人にどう思われてもいいや」「誰かに愛されなくてもいいや」なんて安易に考えてしまいがちです。

 

しかし、誰の支えもなく、誰にも愛されないで、誰にも認められないで、自分のやりたいことができる人は私の知る限りはいません。

 

身の回りの人に愛されて、認められてはじめて自分がやりたいことができるものです(悟り)

 

 

 

そして私たちは往々にして会社選びを4段階目の「承認欲求」を満たすための手段としてしまいがちです

「そんな大企業に入ったの?すごい!」という賞賛の声が聞きたい一心で私たちは  安易な仕事選びをしてしまいます。

 

私もそうだと思います。

いくら「やりたいことがやれたらそれでいい」なんて言っていても、

人の目は気になります。

周りの人からのいい評価がほしいです。

認められたいです。

それが間違っているとは思いません。   

 

 

ただもし人受けのいい会社に入ったときに私は満たされるのでしょうか?

もちろん当分の間はチヤホヤされるでしょう。そして自分も自慢げのはず。

ただそこで何年も働いたときに自分は満足しているのでしょうか?

「やりたいことがやれていない」                       

そうやってモチベーションが下がっていくと思います。

 

 

お金をもらうため「だけ」の手段として働く?

『「やりたいことがやれない」なんて、なんて甘いこと言っているんだ!』

と思われる方もいるでしょう。確かにそうですね。僕が甘ちゃんなのかもしれません。

 

でも、「自分がやりたいことをやりたい」と思うのはそんなにいけないことでしょうか?「やりたいこと」を押し殺してまで、会社選びをするべきなのでしょうか?

「お金を稼ぐ」手段という物理的欲求のためには、自己実現は犠牲にすべきものなのでしょうか?

 

『お金をもらっているんだから偉そうなことを言うな!』

お金を稼いで生きるためだけに「働く」のでしょうか?

自分の夢を叶えたい、自分の好きなように行きたい、そのために「働く」という手段を選べないのでしょうか?

 

 

私は極論を言えば、お金がなくとも自分の好きなことができればそれでいいと思います。

 

少なくとも「生きていくための最低限の暮らし」が保障されているのが日本です。

そんな裕福な日本に生まれてなぜ「自己実現」の欲求の達成のために「働く」という 選択肢が取れないのでしょうか?

「物質的に豊かにならねばならない」という強迫観念はどこからくるんでしょうか?

もし身の周りの誰かと比べて裕福ならば、それで幸せなんでしょうか?

 

物理的な欲求だけを追い求めていては私たちはどんどん不幸になっていくと思います。「本当にやりたい」と思うことがあるのに、その欲求を抑えてまで、歯を食いしばりながら、「仕事に行きたくない」と言いながら働くことが正しいのか

 

お金のために我慢を重ねて働き続けて、それで過労死したとしても「そんな精神力がないやつはこの世界では生き残っていけない」と言われてしまうのでしょうか?

 

僕はそんなものが「正しい生き方」だとは決して思えません。

繰り返しますが、「お金を得るためだったら理不尽なことに耐え続ける」という考え方には、僕は疑問を抱かずにいれません。

 

だからこそ、もし自分が会社選びに迷ったとき(そもそも選べる余地もないかもしれませんが笑)、もう一度この「五段階欲求説」を思い出したいと思います。

「社会に愛されたい。他人に認められたい。それもわかる。ただ自分がやりたいことができる職場なのか?」

 

 

 

自己超越の段階まで考えれば

「自分の仕事が自分の知らない誰かを幸せにできることか?」

本当の意味での「社会貢献」ができる会社なのかということも考えてみたいと思います。

 

このように私たちの就活についてもう一度考えさせてくれるヒントをくれるのが、この「マズローの五段階欲求説」なのかもしれません。

 

かとけい

 

 

P.S. 何分まだ学生の身分なので考え方が甘いかもしれません・・・。

社会人の方の意見、コメント欄等でいただければいいなと思います。