ホモサピエンス日誌。

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「君の名は。」を今更ながら分析してみたよ①

(かなりの「君の名は。」のネタバレ含みますのでご注意ください笑)

 

やっと、やっと「君の名は。」を見てきました。笑

今更かよ、って感じですが、マレーシアでの公開は12月初旬からということだったので、早速レポートが終わるや否や見てきました。

 

感想・・・

めっちゃ面白い!!!!

面白すぎて2回見に行ってしまいました。正直一回目では感情描写などの点で理解しきれないところが多かったので2回見に行って正解でした。

2回目はほかの人に泣いてるのを見られたくないという理由で、一人映画 at Malaysia キメてきました。両隣の見知らぬマレーシア人たちと3人で号泣するっていう。笑

実際に涙を流しているかはそんなに確認してないんですが、両隣からティッシュで鼻をズオォォってかむ音が聞こえたので間違いないです。

 

で、最近はちょっとブログが更新できずにいて、再開しょっぱなからシリアスな投稿をするのもアレなので、息抜きがてら「君の名は。」を自分なりに解釈してみました。

 

新海作品の集大成、最高傑作

今回の映画、新海誠監督の過去作品の設定が結構この作品でも反映されています。

これはたまたまではなくて、新海監督が意図的にそうしているようです、

以下、新海監督のコメントの引用です。

「僕の作品を昔から見てくれている人に何かサービスのようなものを届けたかった。今回は監督の名前を知らないような人たちに作品を届けたいと思ったが、昔から僕の作品を見てくれている方に「俺はこれを知ってるんだ。」と思ってもらえる箇所も何箇所か入れたかったんです。」

確かに新海監督の過去作品を見ている方にとってはニヤリとなるシーンが何か所もちりばめられていました。

有名なのは、三葉が通う学校の古典の先生、ユキちゃん先生。前作の「言の葉の庭」のヒロインの「ユキノ先生」とそっくり、というか、本人です。笑 声優も花澤香菜さんで同じだし。

それに終盤の三葉と瀧くんがすれ違うシーンも「秒速5センチメートル」のラストシーンを彷彿とさせます。秒速を見られた方はこのシーンで結構胸が締め付けられたのではないでしょうか。笑 

隕石であったり、天体に関するエピソードは「ほしのこえ」でも「秒速5センチメートル」の第二章「コスモナウト」でも出てきました。

あと、個人的に思うのですが、瀧が絵をかくのが好きなのは「言の葉の庭」の主人公も家で絵(設計図)を書いていたような・・・。

とにかく、「あれこのシーンどこかで・・・」と何度も思わされる作品でした。

 

瀧君の描写少なくない・・・?

その他の内容についてはいろいろなブログで触れられていますが、その中の批判として「瀧君に関する描写が少なくて、感情移入ができない」みたいなことが結構書かれています。

 

確かに瀧君がイマイチどんな性格なのかがイマイチつかみきれないなあと思ったのですが、むしろこれは「個性のないキャラクター」を描いているような気もしました。

 

劇中の描写からは特に彼がこれといったこだわりを持って生きているわけでもなく、深い悩みがあるわけでもなく、父親との2人暮らしについてもそれほど深く考えているわけでもない。なんというか彼の行動の軸がこの映画からは見て取れない。彼の深層心理にある「なにか」が一体何なのかまったくわからないまま映画が終わる。

 

確かにそう、確かにそうなんだけど、ある意味これが「普通の高校生」の姿なんじゃないかなと。アニメでは「過去にトラウマを抱えていた少年」「非行少年に見えながらも実は良いヤツ」みたいなわかりやすいキャラが描かれる傾向にあるかなと思います。それを見ている側にとってもキャラの輪郭がはっきりしていたほうが感情移入しやすい。

 

でも現実にこんなわかりやすい「ステレオタイプ化」されたキャラクターはそうそう存在しておらず、むしろ瀧君みたいな「普通な」人のほうが多いのではと思います。

 

「ステレオタイプ化」が非現実感を生む。「普通さ」が実存感を生む。

別に深い悩みはないし、目指すべき大きな目標も対して持っていない。毎日をなんとなーく生きている。それが本当の「高校生」像なのではないでしょうか。

その行動は矛盾に満ちていて、一貫した(ステレオタイプ的な)「キャラクター」というものがない。

日本社会においては特に「個性」といったものは押し殺され、個としての目立たなさが社会の「普通さ」に貢献しています。瀧君もまさにその一人で、他人の輪を乱すこともなく、その「普通さ」を生む構成員としての役割を果たしています。

この「キャラクターのなさ」が私たちにとって当たり前であり、日常です。そこに私たちは「リアル」を感じるのではないでしょうか。

だからこそ、私たちはこの話全体をリアルなものとして錯覚し、「入れ替わり」という非日常すらリアルなものとして錯覚してしまうのではないでしょうか。

 

付け加えれば、この「入れ替わり」は「夢」という私たちが体験しうる出来事として組み込まれている点で「私たちも実は夢の中でほかの人の人生を生きているのでは」という期待を抱かせてくれます。つまり私たちはこの非日常的な「入れ替わり」にすら一定のリアルを感じているのです。

 

もし瀧君が「アニメ」に生きる「キャラクター」の一人だったら・・・

もしこれで瀧君が強烈な個性、壮大なバックグラウンドを持ったキャラクターだったとしたらこの感動的な話は生まれなかったと思います。その妙に不自然なキャラクターの「わかりやすさ」が悪目立ちし、その上で「入れ替わり」というファンタジー要素が入ってきて、観客は全く現実感を覚えることができません。

「これは私たちの生きている世界の話ではない」そう思ってしまったら、リアルに描かれた都会、田舎、そしてリアルな日常もすべてが水の泡になり、観客にとってはただのハリボテとして不自然なものに映ってしまうのです。

 

全てがファンタジーではなく、リアルなキャラクター、リアルな風景にアンリアルな「入れ替わり」という変数が加わったからこそ、この映画により奥行きが生まれ、多くの人に共感を与えることにつながったのではないでしょうか。

 

 

 

・・・まだ書きたいことは山ほどあるのですが、長くなってしまったので、また次回に回します。それでは!