ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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文章を見れば、その人の人となりが見えてくると思う話。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

前回の国際関係論についての記事の続きを書こうかと思ったのですが、それはひとまず置いといて、今日は「文章とその人の性格」について思っているところを書いてみようと思います。

 

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ブログを書き始めて感じた「ありのままの自分」。

留学に来る前の8月からこのブログを書き始めて、はや50記事に到達しそうというところまできました。ブログを一から読み返してみると、はじめの方の文章と今書いている文章では全然書いているテーマも違えば書き方も少し変わってきているのかなと思います。それに初期の方は結構何が言いたいのか自分でもよくわからない記事が何個かあります。笑

 

正直変にカッコつけてて、今見るとかなり恥ずかしい記事もあるので削除して無かったことにしたいなとも思うんですが、それも思い出の一つとして残しておくことにします。

 

ブログの中ではあーでもこーでもないとざっくばらんにも色々書いてきました。その中で虚勢を張っている自分、悲観的になっている自分、それをなんとか鼓舞しようとしている自分、そんな自分を褒めてあげたいと思っている自分などいろいろな自分を見つけました。なんとも自己憐憫の情にあふれた、というか女々しいというか。まあでもそのどれもが他の誰でもない自分なんだなと実感しています。

 

書き手になってみてはじめてわかる「書き手の視点」

こうやって書き進めているうちに他の人の書いた文章を見る視点も変わってきて「この人はどんな意図でこの文章の中でこの単語を使っているんだろう」と書いている人の気持ちになって文章を読むようになりました。

 

やっぱり人によって文章のスタイルも、使う語彙も、扱うテーマも全然違います。ちょっと気の利いた言い回しを使う人、物事をシンプルに説明する人、その逆ですごく難しい用語を使って説明する人。いろんな人がいます。

 

どれが一番いいかは言えませんが、僕の中では皆さんの書く文章の中で「いいなー、こんな文章が書きたい。」と思える文章の書き方があります。

 

 

僕の好きな文章の書き方。

僕が読んでいて好きな文章は「自分に素直な文章」です。「素直な文章」というのは、その人がどういう環境で育って、どういう生き方をしてきたのかが読んでいるうちに自然とわかる文章です。別の言葉で言えば「人間臭い文章」です。

 

別に書いてあることが整理されていようが、されていまいがそれは関係ありません。うまく言い合わせないけれど、の人の今の気持ちと言葉がシンクロしている文章、そういう文章に惹かれます。ありきたりで当たり障りのない言葉ではなく、その人の人となりが表れている文章。そんな文章が僕は好きです。

 

 

…なんか告白してみたいで気持ち悪いですね。笑

 

でも文章って本来はそういうものじゃないかと思うんです。論文などの形式張ったものはその場に適した言葉を正確なタイミングで使うことが求められますが、SNSなどではもっと自由に言葉を扱えます。そういう半ば無意識で書かれた文章にこそ、その人の本性みたいなものが垣間見えるがするんです。

 

だから逆に言えば、何だか月並みの、優等生みたいな文章は僕は大嫌いです。文章の構成であったり、言葉の選び方のチョイスも間違ってはいないのですが(上から目線でごめんなさい)読んでいて書いている人が全く見えてこないというか、文章がすごく無機的なもの。

 

文章の中で自分のことをメインに書いていないとしても「素直な文章」にはその人の人となりがおぼろげですが見えます。でもそうでない文章は自分の感情を掻き立てるものがないというか、すぐ頭の中から離れていって記憶に残りません。

 

 

気持ちを思ったままにストレートに表現する。

書いている人が素直であれば、その文章での感情が正のもの(うれしい、楽しい、ありがとうの気持ちなど)であっても負のもの(悲しい、辛い、嫌いなど)であってもその気持ちがストレートに読む人に伝わります。

 

「優等生」の文章はその感情が全く伝わりません。文章に感情をあらわす言葉があるけど、それがすごく空虚な響きをもって感じられるときがあります。それは僕の中で書いている人と書いている文章がリンクしていないだけかもしれないけど、「素直な文章」にはあって、「優等生」の文章にはない「何か」があって、それがとてつもない違和感となって襲ってきます。

 

僕自身は自分の感情をあまり素直に出せない方なのですが、それでも「優等生」の文章にはならないように、と気をつけているつもりです。このブログを通して、多少なりとも僕がマレーシアで感じたこと、考えたことが読んでくれている方の何人かの共感を得られれば、何人かの役に立てられればと思っています。

 

こうやって自分が「素直でありたい」と思っているからでしょうか。僕は心の底から(この言葉も月並みですが)「素直な文章」がかける人が羨ましいし、たとえその人が僕の知らない人であっても会いたいという気持ちになります。

 

 

「その人の人生は、その人の文章のコンテクストになる。」

「自分らしい文章」というのはその人の文章力の高さとか頭の良さとかそんなものではなくて、書く人がいかに自分と向き合って書けるかによると思います。だから例え文章的にちょっとおかしなところがあっても、「あ、この人らしいな」と思える着飾らない文章は好感が持てるし、次も読みたいと思わせてくれるのだと思います。

 

前もどこかで書いた気がしますが、僕の好きな言葉の中に「その人の人生は、その人の文章のコンテクスト(文脈)になる」という言葉があります。その人がどう生きてきたか、そして今何を考えているのかは、その人の文章のスタイルに大なり小なり影響を与えます。

 

無理に自分の身の回りの人に合わせて、それを文章のコンテクストにして、自分が本来持っているはずのコンテクストをなくしてしまうのはもったいない。無理にポジティブな言葉で終わらせなくてもいいので、とにかく自分の言葉で書ききる。そういう素直な、ともすれば少し頑固な文章が好きです。

 

まだ大学生で社会を知らない甘ちゃんだからかもしれませんが、それでも社会人になってからも万人受けする「優等生」の文章ではなく、誰か一人でもいいからその人の心にグッと刺さるような、そんな「素直な」文章を書いていきたいものです。

 

 

今回はこのへんで。

かとけい

 

 

 P.S.

優等生の文章には「うまく書かないと」というノイズがあるのかもしれません。僕も英語で文章を書くと文法的におかしな点がないか、ちゃんと気の利いた言い回しが出来ているかなどというノイズが気になり、肝心の自分の気持ちをおざなりにしているときがあります。

 

そういった文章は後から自分で読んでても「何か」が欠落していて、どこか不完全な文章に見えるときがあります。やっぱり自分らしさが滲み出る文章を書くにはそういった外的なノイズを一度シャットダウンする必要があるかもしれませんね。