ことばにしない、ということ。
説明。
説得。
質問。
仕事のどんな場面でも「言葉にすること」は必要不可欠だったりする。
今日の自分ができたことは何か。
もっと改善できるところは何か。
今の自分はどう感じていて、今後どうしていきたいか。
おさまりのいい言葉を見つけたときにとてもすっきりする。
一方で、このテレワーク渦で、自分と向き合う時間が増える中で、
圧倒的に言葉にならないモヤモヤやイライラ、自分の中のセンシティブな感情に
向き合う事がとても増えているように思う。
それを全部言葉にしようと、なんだか、気持ちがいいようで、
どこか違う、本当に自分がそうは思ってはいないけど、自分が最近使った
言葉だけで自分の気持ちを紡いでしまうことに対する違和感。
そこでふと思ったことが、「全部言葉にする必要なんてないんだ」という至極
当たり前のこと。考えることを放棄することとは違う。でも自分のように
内向的な人間は、誰に言われなくても、勝手に自分と対話を始めてしまうのだから、
考える過ぎるより、もっと自分の五感、センスに任せて自然体でいたい。
この先自分は何をしていたいか。どうなりたいか。
答えを出すのは難しい。「ことばにする」のはそれに近づく一つの手段だと思う。
でも、ことばにしている間に「いま」という瞬間の前提は、予想以上のスピードと想定外のベクトルで変化しづけている、と考えると、ことばにするだけでは遅すぎるし、すぐにことばが風化してしまう。陳腐化してしまう。
だからこそ、「いまここ」の自分を、自分の中の自分と、
ちょっとだけ遠くの、自分を客観的に見つめる自分と話しながら、感じながら、
前に進んでいければ。
もちろん、前に進むだけでなく、その日だけみたら後ろ向きになっていることもあるかもしれないけれど、とにかくその場、その場おかれた場所で咲いてみる精神で、
死ぬまでの暇つぶし程度の感覚で、楽観的に生きていくのが吉。
こんなことを書いていると、とても病んでいるようだけど、とても元気です。
むしろ病んでいるときはもっと毒々しい、とげのある、ことばの使い方をしてしまう
ので、今日はとても平和な一日だった証だということだとおもう。
「ことばにすること」
ブログで文章を書きながら、ことばにしないことの価値について書くのはとても矛盾しているようだけど、自分の中では「ことばにすること」「ことばにしない」ことを意識的に両立させることで、自分の中から膿をだしているような、そんな感覚がある。
『わたしたちは考えすぎて、感じていなさすぎだ。』
Charlie Chaplin "The Great Dictator"
書きたかったのは、ことばにしすぎるのもよくない、というバランスの話。
いま、自分のこの気持ちをことばにせずに、自分の心のなかだけで味わってみる。
味わいたくないような、苦さがあるなら、それはそのままそっと心の片隅に置いておけばいいのだし、それを無理やり頭の関心毎にしてしまうと、どんどん頭にも、
心にもそれがこべりついてしまって、どんどんネガティブになる。
よく「ポジティブに考えよう」という人がいるけど、もともと内省的でネガティブなひとにそんなアドバイスは無用だとおもう。ポジティブに考えたい、と思うようなトリガーになるのはだいたい(その人にとって)ネガティブな出来事なわけだし、長年積み重なったものの考え方はなかなか変わらない。
だから、もう、そういうときは、そういうときだけは、考えなくていい。
「あー嫌な気持ちになってるわ、自分」くらいで言語化するのをとめておいて、
あとは自分の気持ちを観察する、くらいのスタンスが一番気が楽だ。
少し時間がたってから振り返ってみて、それをむしろ面白おかしくエピソードとして
話すくらいが内省的な人にとってはよい処方箋だとおもう。
Charlie Chaplin "Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long shot."
『人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ』
(たくさんある、喜劇王チャップリンの名言の中でも、一番好きなことば)
つらつらと書いていて、結局どこに着地するのかも見えなくなってきたのだけれど、
今日は「ことばにしたかった」一日だったんだと思います。明日読んだら、黒歴史な内容であったとしても、今日いま、この瞬間の気持ちを吐き出せたので満足して、眠りに落ちます。
かとう
P.S. 久々のブログすぎて、文体が定まらないけど、これから落ち着いた文体をさぐってゆきたい。