ホモサピエンス日誌。

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文系学問の有用性について。part2

マレーシアからこんにちは。

今回は前回に引き続き、文系の有用性について思うところを書いてみようと思います。 

 

すべての土台は文系にあり。

文系不要論の根底には「文系ー理系」という二項対立軸があり、理系との比較なしに文系の有用性を語ることはできない。つまりはこの文系不要論の中では「理系は有用性があるけど、文系は理系と比較して有用性がない」という前提がある。ここでの「有用性」とは「実用性」と言い換えることができる。

 

実用性。その学問が果たして社会の役に立つのかどうか。その知識が直接的な形で自分たちに利益をもたらすかどうか。理系であれば、医学の知識は人の病を治すのに役立つし、機械工学であればものを作り出すのに役立つ。理系の学問は目に見える形でその効果を表す『物質(もの)をつくる』力があるといえる。

 

文系の学問はどうだろうか。文系の学問は往々にしてその効果が見えにくい。論文という形で目に見える成果を残せてもそれ以上のものはなかなか生み出せない。それゆえに文系の学問は「役に立たない」という指摘がされるのだろう。たしかに文系の学問は直接的な形では私達の生活に関わってこない。この意味で実用性は無いかもしれない。しかし文系は理系の学問の生み出せない「価値観」を生み出すことに成功している。この価値観はすべての人間の創造物の根源にあるものである。

 

なぜモノは作られるのか?

少し話が抽象的になってきたので具体例をもとに考えよう。

なぜ人々は「洗濯機」を作ろうと思ったのか。

汚れた衣服をきれいにするため?

それも人の力を借りずにスピーディーにきれいにするため?

時間を短縮するため?

このどれもが正解である。これらの「価値観」が人々に洗濯機を作るように促したのである。

なんの考えもなしに急にモノづくりをしようとすることはありえない。

人々の行動には必ずその行動を起こそうとする理由がある。「価値観」もその人々の行動に影響を与える大きな一つの要素である。それが良いとされているからそのモノは生み出される。

 

理系の学問はこの価値観の成熟とともに発達してきた。良いものをより良く、良くないものをより良くしようとするのは当然のことである。私達はそのモノ作りのプロセスに目を向けがちだが、このモノ作りの根本にあるのは価値観である。なぜそれが良いものか、あるいは良くないものか。なぜ必要か、なぜ不必要か。それらの価値観の創出は当たり前かつ、自然のうちに行われるがゆえになかなかスポットライトを浴びにくい。

 

文系の学問はこの「価値観」の構築、分析、再構築を行う。

なぜその文学は生み出されたのか。その文学にはどういった文学的価値があるのか? 

先行研究の中で矛盾している点はどこか?

 

「どういった点で有用か」ではなく、まずその問の前提にある「有用性」というコトバに目を向け、「有用性=社会の役に立つもの」と言う認識をもたらしているものは何かといったことを追究することが文系の果たすべき役割である。

 

複雑な物事をシンプルに、シンプルな物事を複雑に捉える文系。

上記したように、文系の学問の真骨頂は「価値観創造」にある。

この価値観の創造は既存の物事を多角的な視点から捉え直すことから始まる。

シンプルなこと、当然だと思われてる事象を別の自称と結びつけて複雑に、

複雑な事象をある理論に基づいてシンプルに考える。

これが文系の研究ではないかと思う。

 

政治における政策決定のプロセスもこれに似たものがあると思う。

ある外交政策の合意形成の際に国内事情、国外事情を汲み取って慎重に検討していくこと。

難しい局面で過去の政策をモデルにして、打開策を考えること。

物事を抽象化、一般化、体系化すること。

価値観はこういったプロセスの積み重ねをもとに生み出される。

 

この価値観が定まれば後は一直線である。「実行」あるのみ。

こう考えると理系の学問は価値観を実行に移す学問といっていいだろう。

もちろんそのアイデアが形になったあとでも価値観は常に移り変わっていくものである。

「これを作ったのは、この技術を開発したのは果たして良いことだったのだろうか」

正しい価値観といったものを見つけるのは難しいが、常にその価値観を見定めることが文系の義務なのだろう。

文系学問の有用性について。part1

マレーシアからこんにちは。かとけいです!

 

今はお隣のタイに来ておりバカンスを満喫中です。また旅行が終わり思考の整理ができ次第、タイの記事を書こうと思います。

 

今日は高校の後輩とlineしていて話題にのぼった"文系学問の有用性"というマジメなテーマで思うところを少し。

 

 

広がる文系学問不要論。

"文系の学問なんて社会に出て役に立たない。" 

最近そんな声が良く聞かれるようになった。実際文系の学問を専攻している誰もがこの疑問を一度は抱き、自分の学んでいることが将来役に立つのかと不安になった経験があるのではないだろうか。

 

企業はそんな僕たちを待ってはくれない。死ぬまで哲学しても答えが出なさそうな"何のために学問をしてきたのか"に一定の答えを出すように迫り、さらにその学びをいかに企業に還元していくかという意地悪な質問を僕たち学生にするわけだ。

 

結果的に僕たちは企業の求める"即戦力"となりえるような学問のあり方を追求したり、さらには学問から離れたところにその答えを求めたりする。

 

有用性の外で、本気で学問をする学生に捧ぐ。

それが悪いとか良いとか言うつもりは全くない。しかしこのままでは"即戦力"とはならない学問を学ぶ学生たちがあまりにも救われない。

 

文系の学問に純粋に興味を持ち、授業の中でより優秀な成績をとったり、ユニークなアイデアを出そうと努力する学生。

 

" そんなの将来のなんの役にたつんだ"

勉強していたら一度は抱く疑念。

自分もある意味興味を持ったらとことん追求しないと気が済まない凝り性なところがあるから、こういった"文系不要論"に対して全く反論できないで悔しい思いをしてきた。

 

そもそも文系の学問に有用性を求めること自体不毛な議論かもしれないし、その学問を本気で学ぶ人達にはおせっかいなことかもしれない。

 

まあでもやっぱり言われっぱなしは悔しい。何か一言物申せないか。

 

ということで、ここではあえて"文系の学問に有用性を見出せるか"という問いを立てて、文系っぽく独断と偏見に満ちた推論をしてみようと思う。

 

 (長くなったので2回にわけます笑)

 

前期セメスターを振り返って

マレーシアからこんにちは、かとけいです。新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。ブログも2017年はより精力的に更新していこうと思います。

 

今回は2016年の振り返りということで、留学直前と留学渡航前半についての反省を書きます。かなり主観的な感じで

 

いやーそれにしても2016年めちゃくちゃ早かった。こうやって留学もあっという間に終わっていくのだ思うと、毎日を大切に生きないと、と切に思います。

 

それでは激動の2016年振りかえってみましょう。

 

2016年前半: "動く"を目標に。

2016年前半はとにかく今までやったことのないことにひたすらチャレンジしてみました。

 

例えば、トビタテ留学JAPANへの応募。必要書類を揃えるだけでなく、プレゼンのスライドを作ったり、面接対策をしたりでかなり苦労しました。ちょうど留学準備の時期と重なったので尚更です。しかしながら、大学の先生方や友達にプレゼンのアドバイスをもらったり、企業の方と面接させてもらったりかなりいい経験ができたかなと思います。

プレゼンといえば、派遣留学候補生としてこれから留学する人にむけてのプレゼン発表をしました。ぶっちゃけ留学もしてないのに一体何を話せばいいか全く分かりませんでしたが、"こうしたほうがよかった"という失敗談の方がためになるかなと思ってそういう話をしたつもりです。後ほどまた触れますが "留学は準備が全て"だと思います。これは

マラヤ大学での授業を辛口レビューしてみる。

マレーシアからこんにちは。かとけいです。

マレーシアで留学と言ってもなかなかイメージがつきにくいと思うのですが、特に授業とかはどんな感じなのかといった情報が少ないような気がします。

そこで今日は僕がマレーシアで前記取った授業について辛口レビューをしてみたいと思います。

 

まずは取った授業一覧。

  1. 外交政策分析 Foreign Policy Analysis
  2. 人権と国際政治 Human Right and International Politics
  3. 広告学 Advertising 
  4. 文化観光学 Cultural Tourism

 

こんな感じです。授業は一コマあたり2時間でそれに加えてチュートリアルが一時間確保されているので全部で3時間、日本の大学の授業2つ分くらいだと思います。履修は最初の2週間で決めるということでこれは日本の大学とほとんど同じ制度ですね。

 

それでは早速レビュー行ってみようと思うのですが、わかりやすくするために以下の基準を設けました。

  1. 難易度 ★5〜1 (TOEFL80くらいの人が受講したと仮定して)
  2. 面白さ ★5〜1
  3. 総評

この3つを基準に書いていきます。

 

1.外交政策分析 foreign policy analyse

難易度 ★★★★

面白さ ★★★★

この授業内容自体はすごく面白いと思います。

まずは国際関係の柱になる3つのセオリー、リアリズム、リベラリズム、社会構築主義について学び、プロパガンダや経済制裁についても理解を深めます。

最後の4週くらいはこれらのセオリーを実際に国際政治の分野に当てはめたらどうなるかということで中国の国内政治の国際化であったり、EUの加盟国拡大政策、ブラジルの南米におけるリーダーシップ政策などについて扱います。

 

授業自体は前もって先生の配布するスライドを読んでおけばそれほど難しくはないのですが、それでもやはり理論的で抽象的な議論が多いのでなかなか一回では理解しづらい部分がありました。

先生の解説自体はものすごくわかりやすいし、一度予習してわからなかったところもほぼスッキリして授業を終えることができました。

 

ただ問題はスライドの煩雑さ。一枚のスライドに150語くらいで英語がぎっしり書いてあるので見にくいったらありゃしません。スライドを咀嚼するだけでも2時間弱かかるときもあったほどです笑

それと予習で参考文献が提示されてそれを読んでこないといけないのですか、その文献が論文ではなく一冊の本で300ページ超えということがザラでそれが7個も8個も並んでいるのでどれから手を付けたらいいかわかりません。

これをすべて読み切るのは不可能なので何とかエッセンスだけでも拾い上げて読もうとするのですが情報が膨大すぎてほぼ不可能。短いまとめの論文であったり、有益なサイトなどを紹介してくれるともう少し勉強が捗ったのかななんて思います。

geogle scholarなり何なり使って自分で調べろやという自主性を重んじる感じなのかもしれません。笑

 

ただ最初にも書いたように内容自体はすごく面白いので後期も国際政治系の授業を幾つか取ろうかなと思います。

 

2.人権と国際政治 Human Rights and International Politics

難易度 ★★★

面白さ ★★★

この授業は主に人権の発達と国際機関の仕組みについて学びます。人権という概念はそもそもどこからやってきたのか、現代の人権は西洋諸国の個人主義の押し付けではないか、といった疑問についても焦点を当てています。

 

この授業の面白いところは「西と東」の対比が常にされていて、普段常識と思っていることが実は西洋諸国の人権思想から来ていて、東洋諸国はその犠牲になっているということに着眼するところでしょう。マレーシアの大学だからこそ西洋中心ではなく、東洋世界に目を向けた学問を追究できるという強みがあります。

日本でもほとんどの情報が西洋諸国からもたらされる情報で東南アジアからの思想であったり、政策が優先的に取り扱われることはまずありません。自分たちが得ている情報はキリスト教精神を反映しているもので、イスラム世界の声が全く届いていないともいえます。そういったことがこの授業で学べました。

 

と真面目に書いてみましたが、ぶっちゃけて言うとちょっと授業そのものは自分にとってあまり面白いものとは言えませんでした。

論文を読んでいてもひたすら「グローバル化するこの世界において国際人権規範については政治的アクターが云々で、その規範について再考、再概念化が必要である」みたいな抽象的な議論が延々と続くので、かなり精神を消耗しました。笑

そもそも「人権」ということは自体がかなり広い意味を持つので、こういった議論も自ずと抽象的になってくるのは仕方ありません。このテーマは抽象的な議論が好きで理論的な話にワクワクしちゃうような人にはおすすめです。

 

3.広告学 advertising

難易度 ★★

面白さ ★★★

広告学ではメディアの機能や種類について学んだり、実践的な広告の戦略理論について学びました。広告、メディアという自分たちに近い存在のものをテーマとして扱う分、それほど抵抗なくスッと頭の中に知識が入っていく感じがします。

 

ただ逆に言えば、なんと言うか、「俺今勉強してる!」感があんまり味わえないのが残念なところです。

これも完全に趣味嗜好の問題かもしれませんが、何となく直感的にわかりそうなことを学ぶのが好きか、客観的で抽象的な議論から入っていくのが好きかのどちらかでだいぶ意見が分かれそうです。

僕はどちらかというと煩雑で直感では分からないようなものが好きで、「●●主義」とかそういう用語が出てくるとちょっとワクワクしちゃう変態(?)なのであまりのめり込むことができませんでした。

 

広告学のセオリーみたいなものを大量に学んでから、広告の分析に入る、と言う形式であればもう少し興味が湧いたのかなぁと思いました。

例えば「SNSを利用した広告の拡散」についての理論を学んだ後に、実践的な取り組みとして『「君の名は」の大ヒットにあたってSNSメディアでの宣伝効果がもたらした影響について』と言った感じで分析チックなことができればいいなぁと思っていたんですが、なかなかそうはいかないのが現実。

 

テレビが果たす役割とは、オンラインメディアが果たす役割とは、と言った感じでひたすら一般的な説明の連続で、各々の概念についての掘り下げであったり、理論的な大きな枠組みの中で考えるといったことかあまりなかったため、ただの単調な暗記になっていた気がしました。

 

もちろんこれも僕個人の感想で、メディアについて学ぶのが好きな人は取って損をしない授業だと思います。

 

4.文化観光学 Cultural Tourism in Southeast Asia

難易度 ★★

面白さ ★★

文化観光の諸概念についての説明があった後、東南アジアの遺跡についての文化的価値であったり、保護活動について焦点を当てていく授業。

 

本当にごめんなさい。本当に申し訳ないんですが、この授業は自分には合いませんでした。

「観光学」ってなんか面白そうと思ってたのですが、そんな幻想は早い段階で粉々にされました。

 

文化観光の定義とは、有形文化遺産とは、無形文化遺産とは、という定義の説明が何週かにわたって説明されます。もうこの段階でちょっと自分は何か違うと感じていて、結局そのモヤモヤが晴れないまま授業が終わってしまいました。

 

自分には何が向いてなかったんだろう、と考えたときにやはりそのテーマ自体に興味が持てなかったのが大きかったんだと思います。観光をするのは好きでも、実際に自分がその観光で文化的価値、歴史的価値に興味を持ってみているかというのが疑問でした。

 

もちろん自分の今まで知らなかったこと、目を向けていなかったことに目を向けることができるのも学問の大切な役割ですが、この分野は何故かあまり興味が持てませんでした。

 

毎週の課題があまり出されず、最後にどっと大量の宿題が出されたのもあまりこの授業が好きになれなかったところかもしれません。一般的に言えば宿題の出ない「楽な授業」なのかもしれませんが、留学で英語力の向上を目的にしている部分もあるので少しキツイくらいのほうが自分の為になるかなと思っていた部分も少なからずあります。

最後の課題は信じられないほど多かったのですがもうその時にはあまり授業のテーマ自体に興味を失いかけていて、とにかく量をこなすことが目的になっていました。

 

誤解のないように言っておくと、もちろんこの授業も東南アジアの歴史的建造に興味がある人にはオススメできる授業です。

 

まとめ

不満もあることにはありますが、概ね今期の授業には満足しています。

偉そうに書いてますが、まだ単位取得できるかも定かでないという。笑

 

次のセメスターでは今回の反省を活かして次のような基準で授業を取ろうと思います。

国際政治系の授業を少なくとも1つ

興味のあるIT、コンピューターサイエンス系の授業を1つ以上

ムスリム文化についての授業を少なくとも2つ

なるべく自分に負荷がかかりそうな授業を取る

こんな感じです次のセメスターも頑張っていこうと思います!

2016年留学前半を振り返る。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。あけましておめでとうございます。

今年も何卒よろしくお願いします!

2017年一発目の記事は2016年の振り返りと2017年の目標について書きたいと思います。


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ひたすら自分と戦った2016年。

2016年を一言で表すと「模索」の一年でした。とにかく色々なことに手を出しました。

留学渡航以前にはトビタテ留学JAPANに応募したり、授業のTAをしたり、サークルで外部の方向けにプレゼン発表をしたり。

留学が始まってすぐはトラブル続きでした。留学して1ヶ月でビザを取りに日本に戻ることになり、授業の教室がどこか全くわからず迷いまくったり。しかも気づけばフィリピンのルームメイト4人とルームシェアをすることになっていました。笑 本当に精神的にキツイことも数え切れないほどありました。

 

授業で勇気を出して手を上げても全然伝わらなかったり、聞き返されまくったり、苦笑いされたり。今だってぶっちゃけ英語が全然ペラペラ喋れるわけじゃありません。

簡単なことは言えるけど、ちょっと複雑なことを言おうとするとすぐ詰まるし、相手の言ったことがわからないこともしばしば。

 

でも何事も「慣れ」と言うものがあって、英語を間違えること、失敗することに徐々に耐性がついていきます。

ボソボソ声で早口で不明瞭な英語で話すくらいなら、わざとすぎるくらいゆっくりで大きな声で発音したほうが百倍いいし、自身を持って話せる。

全然ペラペラじゃないけど、それの何が悪いと。僕は発音がお世辞にもいいとは言えないし、ネイティブのような気の利いた表現が使えません。

今ある英語力で何とかこなしていかなけばならない。「サバイバル英語」と言うとあまりいい響きには聞こえませんが、このサバイバルする力をつけるプロセスがミソな気がします。

 

英語力がなくたって。



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前にも書きましたが、大学でいい成績を残そうと思ったら英語力だけではだめだと思います。

特に自分のような英語が得意でない留学生はプレゼンの構成であったり、デザインと言った別の面に凝って「わかりやすいプレゼン」をする力であったり、単語であったりロジックの面で直感的にわかりやすい表現を使ったりする力が必要。

 

あまり大きな声では言えませんが、他の国の留学生のプレゼンは内容は凝ったものは多くありますが、デザイン的に見やすくなかったり(ひたすら文字の羅列とか笑)するものが結構あります。笑(これは性格的なものなのか、こちらの風習なのかわかりませんが笑)

 

でもやっぱり英語力の面ではダントツで一番クラスの中で低いことは明らかで、授業の中では完全にポンコツだと思われてました。

ポンコツならポンコツなりに英語力は低くてもクラスの中で一番わかりやすいプレゼンを作ってやろうと一念発起し、なんとプレゼンは留学生の中で一番に選ばれました。

完全に英語力の面ではダントツにドベだった自分でも、やり方次第ではうまく行く。このときはプレゼンが一番最後の週で準備する時間もたっぷり与えられていたという幸運も重なり、一番になることができました。

 

それまでは何だか授業を受けていても何だかどんよりとした気持ちが積もっていって授業に集中できない日もありましたが、初めてこうやって良い評価を受けてなんだか目の前がぱっと開けたような気がしました。

英語力がなくても何とかなることがわかったのと同時に、やっぱり何か一つのプレゼン、文章を作る作業に没頭している時間は楽しく、それをやり終えたときの達成感はこの上ないものがあると思いました。

 

弱い自分と戦う。強みを見つける。楽しみを見出す。

ああ、一生懸命作ってよかったな、またこういうふうに何かアイデアを考えて、それを一つの形にしてみたいなと。

大勢の人の前で盛り上がったり、人と仲良くなったりするのには時間がかかるし、そういう場に出るとどっと疲れが押し寄せてしまう、超内向的な自分ですが、そんな内向的な自分だからこそ何か一つのものを一人でじっくり考えたりする時間が嫌いじゃない、というかむしろ好きです。笑

 

留学は言語力をつけることももちろんだけど、「自分がどんな人間かわかる」こと、これが一番のメリットだと僕は思っています。

どういうことか?日本にいる間はみんな自分たちの差異にあまり目を向けません。「自分は誰で、どこから来たのか」なんて誰も気にしません。

日本で生まれて、日本で育ち、日本語を話す人たちがほとんど。まさか初対面の人に「日本から来ました」なんていう日本人はいません。

でも一旦こうやって海外の大学で学ぶことになると、自分とは生まれたところも、話す言葉も、外見も、性格も何もかもが違う学生ばかりです。日本では当たり前に日本語でコミュニケーションを取っていたのに、全く日本語が通じない。英語も全然通じない。

他の国からの留学生は英語がペラペラだし、日本人でも英語がペラペラな子もたくさんいる。

一体自分はろくに喋れずに何しに来たのか。英語が話せなくても積極的に話しかけに行ける子もいるのに、なんで自分はそういうふうに積極的に動けないのか、話に入っていけないのか。最初の頃はほんとに自分が嫌になりました。帰りたいと思うことも何度あったことか。

 

「なんの不自由もなく英語を操って海外の人とペラベラ英語を話す留学経験者」

そんなイメージと片言の残念な英語しか出てこない自分が乖離しすぎて「やっぱり内向的な自分は社交性が必要な留学は向いてなかったんだ、自分にはその素質がなかった」なんて思って落ち込みに落ち込みました。

 

でも今思い返してみるとむしろ自分みたいな内向的な人こそ留学すべきだと思います。明るくて、積極的で、社交的な人は間違いなく留学でうまく行くと思います。言語もメキメキ上達すると思います。

でもそうじゃない内向的な人でも何とかこうして海外でサバイバルできてます。日本では自分の気の合う間柄だけで仲良くしていた人も、こうした環境に身を置けば自分の弱い部分、逆にこれは譲れないという部分が身のうちから出てきます。

僕も自分のコミュニケーション力のなさに気づきながらも、自分には自分だけの世界があってそれは誰にも譲れないものだということがわかりました。

 

それに海外でも内向的な人もいて、僕は幸運なことにそういった友達とも仲良くできています。

もうその友達は半期の留学ということでそれぞれの国に帰ってしまうけど、本音で話し合える友達ができて良かったなぁと思います。海外の人全員が外向的ってわけでもなさそうです。

だから「自分の気の合う人1人でも2人でもいいから見つけて心の底から信頼し合える友達になる」これが日本にいたって、どこにいたって大事なことだとではないでしょうか。

もちろん外向的な人の中には「みんな合えばすぐに友達よ! 友達は沢山いたほうがいい」って人もいるので、一概には言えません。

 

でも内向的な人が無理して八方美人を振りまいて、自分がしたくないことをやるのは違うと思います。僕はクリスマスにみんなとクラブに行って、あまりの騒音と人の多さと何とも言えない皆のテンションについていけず、ソファーで一時休憩を余儀なくされました。笑

クラブも多分お酒が好きで、みんなと盛り上がるのが好きな人には良いと思いますが、僕のような静かな場所が好きな人には向いてません。

とは言え、海外に留学していれば一度は行くことになるだろうと覚悟したので、なるほど、こんな世界があるのかと言うことがわかっただけ貴重な経験でした。

 

話にまとまりがなくなってしまったので、無理やりまとめると

 

●英語力はなくたって留学はなんとかなる

●留学で「丸裸の自分」になって、自分の弱み、強みを知る

●内向的な人でも留学は学ぶことが多い。海外にも内向的な人はいるよ!

といったことを知れた2016年でした。

 

もちろん「いやいや留学は海外の友達をできるだけたくさん作って、英語力に磨きをかけることが一番でしょ」という声もある、というか大多数だと思いますが、こういった自分のような内向的な人も留学を満喫してるよ!ということを知っていただければなぁと思います。

 

 

2017年のスローガン 『究』(きわめる)

2016年の振り返りはこの辺にして2017年の目標について。

2017年はズバリ『究める』年にしたいと思います。

2016年は『模索』の年だったと書きましたが、2017年は『探究』『追究』をする一年になればなぁと。

意味的にはさほど変わりませんが、自分のイメージの中ではもっとフォーカスを絞って自分のしたいことを探して、究めるつもりでいます。

2016年のエントリーではしきりに「自分のしたいことをする」と書いていましたが、自分のやりたいことだけやって生活できるなんて甘ったれた考え方というのは重々承知です。自分のしたいことをやり抜くためにはそれを「究める」必要があります。とにかく時間を作って没頭する。面白い記事を一つでも多く書く。自分の英語力を高めて、もっと視野を広げて、視座を高くする。

 

「書く」こと、「考える」こと、「作る」ことそのものは好きですが、それを人との競争の中で考えたときに自分はまだまだ全然その分野ではスタートラインにも立っていません。

 

就活の中で自分のこれまでやってきたことをどう活かせるのか。その会社はどんなことをしていて、自分はどう貢献できるのか。そもそも就活というレールに乗るのか、そのレールから外れて別の道を探すのか。まだまだ分からないことだらけですが自分のペースで探していけたらいいなと思います。

 

とにかく今は限られた時間の中で、今できることを究める。

具体的に言えば

「ブログをできるだけ多く更新して文章力を上げること」

「授業でA+を取ること」

「スピーキング力をもっと上げるために音読、会話の機会を増やすこと」

TOEFLで100点を取ること、TOEICで900点を取ること

の4つです。内向的とは言ってもそれを英語ができない言い訳にしたくないなぁと。もちろん、ここでしかできない経験をできるだけ多くして、それを文章にして残しておければと思っています。2017年が終わったときにどれだけ目標を達成できているかわかりませんが、そこに近づけるように切磋琢磨してければなぁと思う今日この頃です。

英語レポートを短時間で質のいいものにするためのコツを考えてみる

 

マレーシアからこんにちは、かとけいです。
前回お伝えした通り、やっと地獄の英語レポート三昧が終わりました。


結局全部で15000words近く書くことになり、しかもそれを2週間で仕上げなければならないという超修羅場。
あーこうしとけばよかったなぁという後悔も含め、今回は何点かレポートを書く上でのコツを見つけたので今回はそれを紹介します

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①精巧なプロットを作る


プロットはいわばレポートを書く上での「設計図」みたいなものです。このレポートの設計がレポート作成の7割くらいを占めていると言っても過言ではありません。

プロットを作る手順としては以下の通り。


①まずはgoogleでキーワードを検索して、全体を俯瞰してみる
②気になったトピックについてより深く調べる
③それに関する論文をいくつか読む
④「問い」「予想される回答」「論拠」をそれぞれ考えてみる
⑤それをもとに章立てを作る

 

言ってみたら当たり前のことなんだけど、③あたりが割と抜かされがちです。実際今回③をあまりしなかったために大失敗しました。笑

 

②の段階でだいたい自分の調べたことの中でレポートとして書けそうなテーマが見えてきて、だいたいこんな感じで描き進められるだろうというある程度の「見通し」ができます。


ただこの「見通し」だけでプロットを作ってしまうと、その「見通し」が間違っていた時に大変なことになります。

 

「自分の主張したいことをサポートする論文ねぇぇぇぇぇー」状態に陥ります。それもそのはず。だってそのレポートの議論自体が間違っているから。もうこうなったら無理やりでっち上げの理由を作って、レポートを書き上げてしまいましょう。

 

見事にうんこレポートの完成です。
論理の一貫性もなく、その論理を支える論拠もなんか胡散臭い。これぞTHEうんこレポートです。

 

だからこそ③の論文の読み込みが必要で、ここで自分がしたい議論が本当にできそうか、確かそうか見極める必要があります。もし無理そうなら修正を加えなければなりません。

とにかく「レポート書くぞおおおお」と猪突猛進すると痛い目見ます。
石橋は叩いて渡れ。気をつけましょう。

 

 

②英作文ではなく、「英借文」

 

プロットが出来上がったら早速書いてみましょう。いいプロットがこの時点で出来上がっているなら後はそれに肉付けしていくだけ。それほどもう躓くことはないでしょう。後は以下に滑らかな英文を書けるか。

 

滑らかな英文を書くためにはネイティブの英文を真似るほかない。というわけで「英借文」です。

 

引用ではありません。文字通り、英語の型を真似て書くのです。「え、それ剽窃じゃないの??」いやいや、そのまま書き写すんじゃなくて、これいいなと思った文章を頭にストックしておくということです。

 

例えば
"The 20th century saw the wave of internationalization of tourism"
(20世紀は観光業の国際化の時代であった)
という文章をストックしておけば

 

"The 21st century saw one of the biggest EU enlargement"
(21世紀はEUの最大規模の拡大の時代であった)

といった風に書けます。
(間違ってたら修正お願いします汗)

 

とにかくこの英語のストックを増やしていく子ことで日本語を無理やり訳したような不自然な表現が減り、より読み手が読みやすく、内容に集中して読むことが可能になります。

 

これも先ほど書いた③の論文読み込みの段階でやってしまいましょう。論文2、3個を読み込んでそこで自分が気に入った表現は単語単位ではなく、できればセンテンス単位でマークしておく、書き写しておきましょう。


こうすることで英語ならではの書き方、文章の切れるリズムが身につくと思います。

 

 

③早めに書いて、何回もリライトする


これもマストです。さっさと第一稿を書き上げてしまいましょう。それからが勝負です。おそらくそのままではまだうんこレポートです。自分より英語が得意な人、ライティングアドバイザー、先生とにかくいろんな人に見てもらうことでレポートの表現、論理展開が洗練されていくのではないでしょうか。

 

④何はあれ、時間をたっぷり取る


①から③まで色々と書いてきましたが、まずはじっくり腰を落ち着けてレポートに取り組める時間を増やすことが大切。時間の余裕がないと、レポートの穴を埋める時間もそれだけ少なくなります。前の日にいいと思っていたレポートが次の日に見たらダメダメだったというのはよくある話で、むしろ何日か寝かしてからまた書き始めた方がいいレポートができると経験則上思うですがいかがでしょうか。

今回はこの時間が足りなかったのもあって、うんこレポートを量産してしまいました。笑
反省です、、、。 

 

 

今日のまとめ


まだまだ挙げればキリがないですが、主な4つを挙げてみました。
①精巧なプロット(設計図)を作る
②「英借文」をする
③早めに書き上げてリライトしまくる
④とにかく時間に余裕を持つ


また何か新しい発見があれば、投稿します!
それでは!

 

 

「君の名は。」を今更ながら分析してみたよ①

(かなりの「君の名は。」のネタバレ含みますのでご注意ください笑)

 

やっと、やっと「君の名は。」を見てきました。笑

今更かよ、って感じですが、マレーシアでの公開は12月初旬からということだったので、早速レポートが終わるや否や見てきました。

 

感想・・・

めっちゃ面白い!!!!

面白すぎて2回見に行ってしまいました。正直一回目では感情描写などの点で理解しきれないところが多かったので2回見に行って正解でした。

2回目はほかの人に泣いてるのを見られたくないという理由で、一人映画 at Malaysia キメてきました。両隣の見知らぬマレーシア人たちと3人で号泣するっていう。笑

実際に涙を流しているかはそんなに確認してないんですが、両隣からティッシュで鼻をズオォォってかむ音が聞こえたので間違いないです。

 

で、最近はちょっとブログが更新できずにいて、再開しょっぱなからシリアスな投稿をするのもアレなので、息抜きがてら「君の名は。」を自分なりに解釈してみました。

 

新海作品の集大成、最高傑作

今回の映画、新海誠監督の過去作品の設定が結構この作品でも反映されています。

これはたまたまではなくて、新海監督が意図的にそうしているようです、

以下、新海監督のコメントの引用です。

「僕の作品を昔から見てくれている人に何かサービスのようなものを届けたかった。今回は監督の名前を知らないような人たちに作品を届けたいと思ったが、昔から僕の作品を見てくれている方に「俺はこれを知ってるんだ。」と思ってもらえる箇所も何箇所か入れたかったんです。」

確かに新海監督の過去作品を見ている方にとってはニヤリとなるシーンが何か所もちりばめられていました。

有名なのは、三葉が通う学校の古典の先生、ユキちゃん先生。前作の「言の葉の庭」のヒロインの「ユキノ先生」とそっくり、というか、本人です。笑 声優も花澤香菜さんで同じだし。

それに終盤の三葉と瀧くんがすれ違うシーンも「秒速5センチメートル」のラストシーンを彷彿とさせます。秒速を見られた方はこのシーンで結構胸が締め付けられたのではないでしょうか。笑 

隕石であったり、天体に関するエピソードは「ほしのこえ」でも「秒速5センチメートル」の第二章「コスモナウト」でも出てきました。

あと、個人的に思うのですが、瀧が絵をかくのが好きなのは「言の葉の庭」の主人公も家で絵(設計図)を書いていたような・・・。

とにかく、「あれこのシーンどこかで・・・」と何度も思わされる作品でした。

 

瀧君の描写少なくない・・・?

その他の内容についてはいろいろなブログで触れられていますが、その中の批判として「瀧君に関する描写が少なくて、感情移入ができない」みたいなことが結構書かれています。

 

確かに瀧君がイマイチどんな性格なのかがイマイチつかみきれないなあと思ったのですが、むしろこれは「個性のないキャラクター」を描いているような気もしました。

 

劇中の描写からは特に彼がこれといったこだわりを持って生きているわけでもなく、深い悩みがあるわけでもなく、父親との2人暮らしについてもそれほど深く考えているわけでもない。なんというか彼の行動の軸がこの映画からは見て取れない。彼の深層心理にある「なにか」が一体何なのかまったくわからないまま映画が終わる。

 

確かにそう、確かにそうなんだけど、ある意味これが「普通の高校生」の姿なんじゃないかなと。アニメでは「過去にトラウマを抱えていた少年」「非行少年に見えながらも実は良いヤツ」みたいなわかりやすいキャラが描かれる傾向にあるかなと思います。それを見ている側にとってもキャラの輪郭がはっきりしていたほうが感情移入しやすい。

 

でも現実にこんなわかりやすい「ステレオタイプ化」されたキャラクターはそうそう存在しておらず、むしろ瀧君みたいな「普通な」人のほうが多いのではと思います。

 

「ステレオタイプ化」が非現実感を生む。「普通さ」が実存感を生む。

別に深い悩みはないし、目指すべき大きな目標も対して持っていない。毎日をなんとなーく生きている。それが本当の「高校生」像なのではないでしょうか。

その行動は矛盾に満ちていて、一貫した(ステレオタイプ的な)「キャラクター」というものがない。

日本社会においては特に「個性」といったものは押し殺され、個としての目立たなさが社会の「普通さ」に貢献しています。瀧君もまさにその一人で、他人の輪を乱すこともなく、その「普通さ」を生む構成員としての役割を果たしています。

この「キャラクターのなさ」が私たちにとって当たり前であり、日常です。そこに私たちは「リアル」を感じるのではないでしょうか。

だからこそ、私たちはこの話全体をリアルなものとして錯覚し、「入れ替わり」という非日常すらリアルなものとして錯覚してしまうのではないでしょうか。

 

付け加えれば、この「入れ替わり」は「夢」という私たちが体験しうる出来事として組み込まれている点で「私たちも実は夢の中でほかの人の人生を生きているのでは」という期待を抱かせてくれます。つまり私たちはこの非日常的な「入れ替わり」にすら一定のリアルを感じているのです。

 

もし瀧君が「アニメ」に生きる「キャラクター」の一人だったら・・・

もしこれで瀧君が強烈な個性、壮大なバックグラウンドを持ったキャラクターだったとしたらこの感動的な話は生まれなかったと思います。その妙に不自然なキャラクターの「わかりやすさ」が悪目立ちし、その上で「入れ替わり」というファンタジー要素が入ってきて、観客は全く現実感を覚えることができません。

「これは私たちの生きている世界の話ではない」そう思ってしまったら、リアルに描かれた都会、田舎、そしてリアルな日常もすべてが水の泡になり、観客にとってはただのハリボテとして不自然なものに映ってしまうのです。

 

全てがファンタジーではなく、リアルなキャラクター、リアルな風景にアンリアルな「入れ替わり」という変数が加わったからこそ、この映画により奥行きが生まれ、多くの人に共感を与えることにつながったのではないでしょうか。

 

 

 

・・・まだ書きたいことは山ほどあるのですが、長くなってしまったので、また次回に回します。それでは!