ホモサピエンス日誌。

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「ドラえもん」でわかる「国際関係論」その① リアリズム編

こんにちは、マレーシアからかとけいです。

怒涛のプレゼン地獄が終わり、今度はエッセイ執筆が始まりました。

といっても今回は1000words程度のエッセイが2つなので、ゆっくりじっくりやっていこうかなと。

 

2つともエッセイのテーマは「国際政治」についてなのですが、ただ授業で習ったことを書くだけじゃつまらないので、別の授業で学んだ「国際関係論」の理論を絡めながら書いていこうかなと思っております。

 

そういえばちょいちょいブログで僕のこちらの大学の(一応)専門の「国際関係論」について話をしますが、ほとんどの方にとってはあまりの馴染みのない学問領域かもしれません。ということでまだこっちの大学に来て1年もたたないへっぽこ学生ですが、専門外の人にもわかりやすく、なおかつちょっとでも興味を持ってもらえるような形で「国際関係論」を紹介します。

 

「国際関係論」ってそもそも何なの?

※国際関係論を真剣に勉強し始めて、一年もたたないほぼ初学者なのでこれから書くことは完全に僕の妄想に過ぎないとおもっていただいて結構です。笑

 

国際関係論(International Relation)を平たく言いますと「国家と国家がどのような関係を築いていくか」を研究する学問でございます。(そのまんまですね笑)具体的には「なぜ国家と国家が戦争をするのか」であったり、「グローバル化の中で国家はどのようにほかの国と利害の調整を図っていくか」ということを客観的な視点から分析するということになります。

 

まあだからといって一から国と国の歴史を追って、理論を組み立てていくってわけではなく、ありがたいことにもう国際関係論の分野には国家はこうやって動いていくんだよ!っていう頭の切れるエラい学者さんたちがまとめた「三大理論」(Realism, Liberalism, Social Constructivism) が存在してて、これをもとに「この理論に当てはめたら、あの国とあの国がこうやって戦争してるかわかるね!」っていう推論をしていくわけでございます。

 

ドラえもん」を国際関係論的に科学する① リアリズム編

国際関係論をわかりやすく解説みてみた。系のサイト結構見ますが、どれも結構かしこまった言葉で書かれていて、なかなかスナック感覚で読めるものがない気がします。

今回は国際関係に全く興味がない方にもわかりやすく、なおかつ興味をもってもらえるようにするため、国民的アニメ「ドラえもん」を使って説明しましょう。
 
 
ドラえもんに見る「リアリズム」】
ジャイアンは基本的に自己中心的に行動します。「俺様のものは俺様のもの。お前のものも俺様のもの」(ジャイアニズムが彼の行動原理です。こうしてジャイアンはいつもいつものび太にちょっかいを出しています。
 
(そうそれがジャイアニズム

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しかし実はジャイアンがこのような行動をとるのはのび太のやつが俺のものを盗むかも」とひそかに心の中に思っているからかもしれません。だから「盗まれちまう前に、盗んじまえ」というのがジャイアンの言い分です。
 
こうしてジャイアンのび太は常に対立関係にあるわけです。ただ対立関係とはいってもジャイアンが圧倒的に力が強い。のび太は怯えてドラえもんにすがるしかないわけです。やがてのび太ドラえもん、しずかちゃん擁するのび太陣営」ジャイアンスネ夫擁するジャイアン陣営」に分かれて、いわゆる「冷戦」が始まるわけです。
 
 
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【解説】

さて、このジャイアンの「やられたらやり返す。倍返しだ」ではなく「やられる前にぶん殴る」というジャイアニズムからなる対立のしくみが国際関係論の中ではRealism (現実主義)にあたるものです。(※これはかなり乱暴なまとめ方です。もちろんRealsimの中にも様々な学派が存在しています。誤解のなきように)

 

リアリスト(リアリズムを唱える人)は国家がこのいわゆる利己的で搾取的な 「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアニズム精神を持っていると主張します。

別の言い方をすれば、リアリストは人間の本性は「人の上に立ちたい」という邪悪なものであると言っていて、この人間の本性こそが国家を動かすものだと考えているのです。だから国際関係は「権力闘争」「自己利益の最大化」に満ちていて、国家は生き残りをかけてしのぎを削っているものというのがリアリストの主張です「争いのない世の中が一番です」という理想を語る人たちに「お前ら現実を見ろ!国家はみんなジャイアンみたいに自己中心的な奴らだぞ!」と言っているんですね。

 

このように、リアリズムの考え方は僕たちの感覚から言えば「乱暴で、喧嘩屋」みたいなイメージがあることから、一般に日本ではこういったリアリズムの主張は少数派で、なかなか受け入れられにくいものだとわかると思います。ただ国際関係論の中ではこのリアリズムは主流のものとして受け入れられています。学者さんの中にもジャイアン好きが多いんですかね。

 

ジャイアンはRealismでいうところのヘゲモニー(覇権)国家です。文字通りドラえもんの世界ではジャイアンは覇権を握っていて、のび太ドラえもんさえも道具なしでは勝てません。ドラえもんの道具は国際関係でいうところの「核兵器」でしょうか。これにはジャイアンも黙るしかありません。ドラえもん恐るべし。
 
 (間違ってもこんな風には思ってはいけません)
 
さて、ジャイアンの心の中には「のび太が俺のものを盗むかもしれない」という猜疑心があると書きました。彼はその疑いをだんだんと強めていって、もしかしたらのび太ドラえもんの道具に屈しないように裏では筋トレをしてるやもしれません。これを国際関係論の中では「安全保障のジレンマ」(security dilemma)といいます。国家は他の国家に対して常に「自分の利益、領土が侵略されるかも」という不安を抱いていて、その不安ゆえに自国の軍隊の増強に励みます。それに気づいて他国もその国に負けじと自国の軍備を整えます。ドラえもんでいう、のび太もビルドアップ始めるってことになります)この繰り返しの結果、かえって両国家の安全保障面において緊張が高まるということですね。
 
(画像あるのかよ)

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はい、次です。のび太くんはビルドアップの甲斐むなしく、ジャイアンにボコボコにされてかえってきます。でものび太くんはまだ諦めない。のび太君にはドラえもんがいます。のび太君はドラえもんの道具(=軍事力)を使えば、ジャイアンにやり返せると信じて疑いません。なんてったってドラえもん核兵器もってんだから。
 

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国際関係でもこれと同じことが起こります。軍事力を持たない国、あるいは軍事力が他国に比べ弱い国は、軍事的に力を持つ国と提携を結んで自国を他国から守るようにするのです。次第に大国がほかの小国と軍事提携を結んで「連合」を作ったりするわけです。
 
のび太はリアリストかも)

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これが最終的にアメリカに代表される「資本主義陣営」ソビエト連邦社会主義陣営」にわかれるようになるんですね。この2陣営は勢力的に均衡していて、この均衡状態によって世界の秩序は保たれる。これを国際関係論では勢力均衡論(balance of power)といいます。このような対立の流れがリアリストたちの冷戦に対しての見解です。リアリストたちはこの均衡論を信奉したがために、冷戦の終わりを予想できなかったんですね。

 
ドラえもんの言う通り)

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さてここでリアリズムの解説は終わりですが、気づいたら結構記事にボリュームが出てしまいました。笑 今回はこの辺にしておきますね。
次回(もし皆さんからのウケがよければですが)は今回のリアリズムとは双璧をなす存在である「リベラリズム」について、またドラえもんの例を使って紹介したいと思います。ではでは今日はこれにて。
 
かとけい
 
P.S. 国際関係論を「ドラえもん」を使って説明するの割と新しいとおもったんですが、ググったらもうほかの人に先越されてました。笑
興味のある方はこちらもどうぞ。
 

www.riabou.net

 

 

 
 
 
 
 
 

 

それでも僕は、勉強がしたい。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

ここ1カ月は毎週のようにプレゼンがあってなかなか忙しいですが、不思議なことに僕はこういった勉強を嫌いになれないでいます。いやむしろ好きなのかも。

 

僕も来年の今頃には就職活動の真っただ中にいると思うのですが、今こうしてマレーシアで感じている「もっと知りたい」「もっと突き詰めたい」という思いを忘れずにこれからも頑張っていきたいと感じています。

 

 

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勉強はやればやるほど面白くなる。

ここマレーシアに留学するようになってから、日本にいたときとは比べ物にならないくらい勉強をするようになりました。もちろんここでいう「勉強」とは足りない英語力を何とか補うための「語学勉強」も含みますが、最近はそれ以上に単純に「もっと知りたい」という知識好奇心で専門分野の勉強をしています。

 

大学の「勉強」というのはいわゆる受験勉強とは違って、「研究」に近いニュアンスを含んでいると思います。受験勉強ではとにかく教科書に書いてあることを暗記して、いかに正確に問題の答えを導き出せるかを学ぶものです。一方で大学では、そのように決まりきった答えを出すことよりも、自分の独自の視点で物事を見て自分なりの答えを導きだすことが求められます。(特に社会科学系の学問はその傾向にあるように思います)

 

もちろんただ教授の授業を聞いているだけでは「知識の拡充」だけで終わってしまいますが、それをプレゼンやレポートでアウトプットすることを通して初めてその知識を自分のものにできて、相手に説明することができるようになります。ただこの知識を吸収して、応用できるようにするのには相当な時間を勉強に費やさなければいけません。

 

恥ずかしながら、日本では僕はそういった努力を怠ってきました。授業も出たり出なかったりで、一夜漬けに近いこともしたことがあります。確かにこれでもありがたいことに授業の単位はいただくことはできました。その結果、僕は「大学の勉強なんて単位をとるためのもので、何の役に立つものでもない」なんて極端な考えに走るようになりました。

 

でもこうしてマレーシアに来て、真面目に勉強するようになって、今までの自分がなんて馬鹿なことをしてきたのか思い知らされました。こちらの大学のローカルの生徒は勉強が忙しくて、アルバイトなんてする時間がないと言います。でも彼らにとっては勉強は強制的なものというよりかは、自ら進んでやるものという意識があるようです。僕も最初は結構勉強が苦痛だと思ったことがありますが、勉強を進めていくうちに勉強すること自体が面白いものだと感じるようになりました。そして「勉強は勉強するほど面白くなる」「噛めば噛むほど味が出る」スルメみたいなものだと気づきました。

 

学んだことが徐々に頭の中で体系づけられていく感覚。

それまでは興味を持てなかった政治的なことがオモシロいと思えるようになること。

今まで見てきたものが表面的なものでしかなく、もっと深い視点で見れるようになること。

大学の勉強はこんなにも面白いと気づけたのはこの留学の大きな収穫の一つです。

 

大学の勉強に『実用性』はない。それでも僕は、勉強がしたい。

「大学で学ぶことは社会に出て何の役にも立たない」

確かに大学で学ぶことそれそのものは社会に出てすぐに役立つものではないでしょう。

特に今僕が勉強している「国際関係論」「安全保障学」「イスラム法学」といったものに企業の求める「実用性」はほとんどないと言っても等しいでしょう。笑

 

ただ先ほど言ったように僕にとって「勉強(研究)はそれそのものが楽しい」もので、目先の利益を獲得するためにやるものではありません。もちろん、実用性のない学問に学ぶ意義を見出せない、という人もいると思います。将来につながる学問のほうがモチベーションを保てることにつながるのは確かでしょう。

 

ただこういった実用性のない学問は「すぐに役に立たない」けれど、「後から必ず役に立つもの」だと思います。政治学や宗教学はお金には変えられないけれど、自分の中で知的財産として残り続けるものです。同じニュースを読むにしてもそれを学んだか、学んでいないかで理解力に大きな差が出ます。偏ったマスコミの報道に流されることなく、自分の頭で考えて物事の本質に気づく能力を養う上でもこういった教養は欠かせないと思います。

 

日本ではこういった勉強を大学生のうちからしている人は少ないし、自分もまたその一人でした。もちろん大学生活をいかに過ごすかは人それぞれです。サークル活動やアルバイトに精を出す人もいれば、趣味に没頭する人もいると思います。大学でやることは人それぞれです。ただ、その中でも「真面目に勉強している生徒」をバカにする風潮があるのは残念なことだと思います。「大学で真面目に勉強したって就活で何の役に立たないよ」という声もありますが、果たして就職に役立つことだけ学ぶのが大学でしょうか?大学はただの就職予備校に過ぎないのでしょうか?彼らは「学びたいから学んでいる」のです。歌を歌いたいからカラオケに行くのと同じです。そしてそうして好きで没頭したことは、それが何であれ、自分のこれからの糧になると思います。

 

おそらくですが、「大学の勉強は役に立たない」という先入観が僕たち大学生から学びを遠ざけ、その結果として「大学の学問はオモシロくない」と思わせているのではないでしょうか。大学院に行くとしても、就職をするにしても、その性質は違えど、自分たちの日常から「学び」を切り離すことはできません。もし僕たちが「大学の学問は将来の役に立たない」という『常識』を信じて疑わないようであれば、将来「ああ大学でもっと政治や経済について詳しくなっておけば」と後悔することになり兼ねません。今すぐ役に立たなくても、将来それが巡り巡って「何か」(それが仕事なのか、暮らしそのものなのかはわからないけど)の役に立つことを信じて勉強すること、それが大切だと思います。その中で勉強そのものが楽しくなれば、儲けものではないでしょうか。

 

さて、さきほど書いたように、来年の今頃は就職活動に専念している時期だと思います。そのときに「大学で勉強をしてよかった」と思えるようにさらに知識を増やし、考えを深めていけるよう今まで以上に精進したいと思います。

 

かとけい

 

プレゼンは「詰め込む」のではなくて「省く」もの。

最近授業関連で立て続けにプレゼンがあり、その中でいろいろとフィードバックをもらう機会があった。

中でも最も大切な教訓は「プレゼンはいかにシンプルに作れるかどうかが勝負」ということだった。

 

プレゼンは情報を「詰め込む」ものという思い込み。

 

ちょうどこの前にしたプレゼンのテーマは「Conflict Analysis (対立分析)における学際性(=研究領域が複数にまたがっていること)」についてだった。紛争分析は国際関係論における一つの学問領域で、世界中で起こる衝突(紛争、戦争、民族対立など)における勢力同士の対立の構図について分析したり、いかにその闘争を防止できるかについて分析するものである。その紛争、戦争といったものが国と国、民族と民族同士の対立といった大規模なものであるために、その分析には非常に多様な学問的な見地からのアプローチが必要になる。(=対立分析における学際性)

 

この「衝突」の背景にある要因は、政治、経済、文化、歴史、ジェンダー、人種、etc...と多岐にわたり、またその「衝突」を分析するにあたって援用する理論も、伝統的な国際関係論における理論(リアリズム、リベラリズム等)をはじめとして、ゲーム理論構造主義などありとあらゆるものを参照する必要がある。

 

・・・とこのように少し専門性の高いテーマであったがゆえに、それを説明するのにもかなりの時間を要した。自分の中では「プレゼンはわかりやすく説明しなければならない」で「一つずつ概念をかみ砕いて、細かく説明する」ことが必要だと思っていたので、40枚にも及ぶスライドを作り、なるべくスライドには文字もグラフもふんだんに使うようにした。

 

詰め込みプレゼンは拷問である。

 

・・・結果は散々であった。プレゼンを初めて15分を過ぎたあたりであっただろうか、何人かの生徒がスマホをいじり始め、中には机に突っ伏して寝ている生徒もいた。そして30分を過ぎたあたり(プレゼンが予想以上に長引いてしまった!)まさかのまさか、教授がうたたねを始めた。

 

これはさすがに堪えた。前のセメスターでは原稿をほぼ丸読みしてしまい、あまりオーディエンスのほうを見れなかったことを反省して、原稿はほぼ見ずに、身振り手振りを多く使って説明したつもりだった。がしかし、そんな努力は無に帰した。自分の英語が聞くに堪えなかったのだろうか、説明がわかりにくかったのだろうか、と思っていたがその教授曰く、単純に「プレゼンが長すぎたし、スライドが多すぎた」ことが今回の敗因だったそうだ。

 

そこでハッとさせられた。「プレゼンはシンプルに作らなければならない」という基礎中の基礎を自分は忘れていたのである。ここでいう「シンプルさ」というのは説明の仕方を難しい用語を使わずに簡単な言葉に言い換えることだけではない。プレゼンは短く、はっきりとしたメッセージだけを抽出しなければならない。膨大な量の情報をプレゼンに詰め込んだとしても、それが相手の理解を助けるとは限らないのだ。

 

スライドはなるべく丁寧に、情報の抜け漏れがないように文字、図の両方を使って、視覚的に訴えたつもりであった。しかし、人間の頭は一度にすべてのことを吸収できない。一スライドで覚えていられるのはほんとに少しのことだけだ。それなのに、40枚にもわたって、国際政治の諸概念を事細かに説明をされれば、いかに教授であれども、眠気が襲ってくるものだ。自分の作ったプレゼンはオーディエンスにとってみればただの拷問に過ぎなかったのだ。

 

プレゼンは短時間で、シンプルに伝える。

 

この失敗から学んだこと。プレゼンは量的にも質的にもシンプルでなければいけない。もちろんアカデミックなプレゼンでもあるから、論理性を伴うものでなければならず、学問的に価値があるものでなければならない。Wikipediaなどからの引用はもっての他であり、文献からの適切な形での引用や、先行文献の正確な理解や高度な分析が求められる。この「シンプルさ」と「学問的な価値の創出」の両立が非常に難しいところであるが、その枠組みの中でいかに高いパフォーマンスができるかが腕の見せ所なのかもしれない。

 

少し仰々しい書き方をしてしまったが、そこまで恐れることではないのかもしれない。要は「いかに情報を削るか」ということに注意を払えばいいのだ。もちろんリサーチの段階では多くの文献に目を通さなければいけないのだが、それをすべてプレゼンに詰め込む必要はないのだ。情報を頭に入れた後は、その情報は省けるだけ省き、最小の形でアウトプットすればいい。

 

「プレゼンで伝える」とはそういうことだ。レポートではなく、プレゼンという形式で伝えるということは視覚的にもわかりやすいものにすることが最も重要である。どんなに口のうまいプレゼンターでも30分間絶え間なく話し続けたら、観客を退屈させてしまう。「シンプルに、短く、わかりやすく」この三拍子がそろってこそプレゼンはイキイキしてくる。

 

「きつかったけど、楽しかった留学」と語り継がれていく留学神話。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

セメスターが始まり、一カ月が経とうとしているが、いよいよ帰国までのカウントダウンも始まった。ホントにこの5カ月あっという間に過ぎ去った。

そんな中、帰ってから「留学どうだった?」と聞かれて、何と答えようなんて早すぎる心配をし始めた。

 

 

「留学どうだった?」と感想を聞かれて多くの人は何と答えるのだろう?

で思いついたのが「きつかったけど、楽しかった留学☆」っていうテンプレ回答。

ほとんどの留学生がこう答えるのには留学の一般的なイメージが関係していると思う。

「留学して、英語がペラペラになって、異文化体験で価値観が大きく変わって、充実した海外生活を送る」なんて留学神話がまことしやかに語られている。

 

一年間の英語で世間の思い描く「キラキラの留学生」になれるか?

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「英語がペラペラ」になるなんてごく一部の人にしか起こりえない。そもそも「ペラペラ」の基準はなんなのだろうか?ネイティブ並みに話せることだろうか?英語をきれいに流暢に話せることだろうか?自分の場合で言えば、第二セメスター目にもなると、自己紹介くらいは詰まらずに言えるようになるが、授業で発言を求められるとほとんどの回答がしどろもどろで、全く論理的でない英語しか話せない。

 

それでもほとんどの日本人は「留学したから英語がペラペラになる」という神話をまるで疑わないし、留学生である自分たちもわざわざそれを否定しようとはしない。というか、まるで一年で別人のごとく英語が喋れるようになったかのように振る舞うのかしれない。

 

これはある意味仕方ないことなのかもしれない。「留学経験」が一種の成功神話になっているがために、留学生が周りからかけられる期待も、自分に期待するものも大きくなっているのは当然のことだ。こう書いていて自分も「英語がメキメキ上達している」と思いたい自分が内面にいるし、帰国してからは外からのプレッシャーと戦わずにいられないと思う。

 

異文化理解による価値観の変化はどうだろう?日本とは明らかに違う生活スタイル、思想に触れることは確かに自分の価値観に何らかの影響を与えることは間違いない。しかし「価値観が180°変わるか」という点は疑問である。これは人にもよると思うが、自分はどちらかというと異文化に触れ、「自分がどういう人間か」という自分軸というものが確立した、といったほうが正しい。価値観の変化、というよりは自己の内にある価値観を再発見したというべきだろうか。

 

ただもちろん「英語力の向上、価値観の変化」に関しては個人差があると思う。性格的に社交的であったり、他人に好かれやすいタイプの人は英語力の向上が早い。ただそれでも、以前に海外に長期滞在していた、大学が英語教育に力を入れている、といった特殊な事情がない限り、英語力の向上は限定的なものになる。もちろん留学する前と後で比べれば英語力には雲泥の差があるが、それでも「ペラペラ」とは程遠い。

 

留学神話が生む留学生の葛藤と苦悩。

これはあまり留学生の口から出てこないことだとは思うが、日本の「留学ブランド」信仰は留学生に心的な負担となっているケースが多くあるように思う。先ほど書いたように「周りから向けられる留学生への期待、留学生が自己に向ける期待」と「実際のきつく、苦しい留学生活」の乖離が留学生を苦しめるのだろう。

 

FacebookをはじめとするSNSもこの現象を助長する一端になっているのだろう。誰も自ら苦悩に満ちた留学生活の様子をアップロードしようとはしない。こういったSNSはどちらかというとポジティブな内容、すなわち海外での成功談、楽しかった出来事等々をあげる場所として位置づけられている。留学生がほかの留学生のFB上の投稿を見て、「あの人はあんな充実した生活を送っているのに・・・」と嫉妬に近い感情を覚えたり、自己嫌悪に陥ったりする。でもよく考えれば、他の留学生も自分たちと同じように言葉が通じなかったり、疎外感を覚えたりするという体験は必ずと言っていいほどしている。

 

 

「きつかったけど、楽しかった留学」神話はもうやめにしよう。

このように、これまでの留学生によって広められてきた「キラキラの留学」神話は、ほかの留学生にブーメランのようにかえってくる。そしてその留学生はやはり「苦しかった留学」よりも「楽しかった留学」「充実した留学」というイメージを強調せざるを得なくなる。

 

ハッキリ言おう。英語は「ペラペラにはならない」。全く話せない状態から1年で「ペラペラ」になるとは「中身のペラペラな英語しか話せない状態」を指すのである。

 

価値観に関してもそれほど変わらないかもしれない。英語がペラペラなのは「留学した」からではない。本人の努力であったり、周りの環境がそうさせているのだ。「留学すれば英語がペラペラになる」なんて安易な考えは持つものじゃないと口を酸っぱくして言っておきたい。特に自分のような内向的な人は言語的な障害だけでなく、精神的な障害も乗り越えなければいけないことを考えると、英語の上達は一筋縄にはいかないと想像できるだろう。

 

留学から帰ってきた留学生はもっと留学の苦悩であったり、泥臭い部分を語るべきだし、留学を「キラキラの異文化体験☆」で片づけてはいけないと思う。逆説的ではあるが、海外の大学で真面目に(死ぬ気で)勉強すればした人ほど、英語はそう簡単にペラペラにはならないもので、海外での留学体験がどれほど苦しいものか知っていると思う。(たかが一年程度の交換留学の自分が言えたものではないけど)

 

これから留学に向かう留学生も「華の留学生活」という幻想にひたらずに、「苦悩の留学生活」を多少なりとも覚悟しておくべきだ。日本人とばかりつるんでばかりでは英語は上達しない。言葉が通じなかったとしても、留学生やネイティブとコミュニケーションをとっていくことが英会話上達の近道だし、アカデミックで教養ある英語を習得しようと思えば、大学の勉強に没頭すべきだろう。これらの経験はかなり心身ともに負荷のかかるもので「キラキラの留学生活☆」とは無縁だが、「キラキラの留学生活☆」を送った人とは比べもののならない教養、英語力が培われているはずだ。

 

かくいう自分もまだまだそれが実践できていない。「最近留学に慣れてきて楽しい」というのはある意味危機を感じるべきだと思うし、よりレベルの高い授業であったり、ネイティブやヨーロッパ圏の人と積極的にコミュニケーションをとって「レベルの差」を思い知らなければいけない。

 

・・・かなり留学のネガティブな面ばかり書いてしまったが、むしろこういった厳しい環境下でしか、本物の英語力は培われないと思う。自分の英語力はこのマレーシアのたった一年の留学の中では「本物」になることは決してないだろうが、いかにその「本物」への道のりが遠いかということを思い知ることができるだけでも自分は恵まれていると思う。ひょっとしたら一生その「本物の英語力」を手に入れる日など来ないかもしれない。それでも去年よりはちょっとマシ、一昨年前よりはもっとマシな英語が使えるようになるだろう。

 

「留学一年して、これで英語は完璧!自分の英語に自信がある!」「日本語と同様にスムーズに会話できる」なんて口がさけても言えない。むしろこのマレーシアでの留学は「自分の英語力がいかに残念だったか」を思い知り、今後もっと血のにじむ努力をして英語勉強に励もうと思わせてくれる。

 

「苦しい、きつい留学」で結構!

「きつかったけど、やっぱり楽しかった留学神話」よりも「きつくて、しんどい留学秘話」をもっともっと多くの人に発信していかなければ、と思う今日この頃。

SNSでは見られない、その人の『裏の顔』を覗きみたい。

お久しぶりです、マレーシアからこんにちは。毎度おなじみかとけいです。

そろそろセメスターブレイクも終わりに近づき、新しい学期が始まろうとしています。

 

最近はもっぱら家にこもって海外ドラマを食い入るように見入っています。笑

引きこもりがちなせいか、ちょっと日中にお天道様の下に行くと眩暈がするという笑えないことになっていますので、そろそろ本気で外に出ないとまずいと思っております。

 

まあそんなことは置いといて、今日はちょっとディープというか、ともすれば自分の性格の悪さがにじみ出てしまいそうなテーマ、「SNSで教えてくれない『裏の顔』」について書こうかなと。

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あくまで「発信」するツールでしかないSNS

最近Facebookやインスタグラムを見て思うことがあります。

「一体この人の投稿のどこまでがホンネで、どこまでがタテマエなんだろう?」

基本的にこういったSNSの類に投下される写真や文章といったものは良くも悪くも加工されています。

まあ当たり前っちゃ当たり前ですが、「SNSに投稿しよう」と思うからにはその人なりに思うところがあるわけです。

 

自分が感じたもの、見たもの、聞いたことがそのままの形でSNSに反映されることはほぼありません。特にFacebookであったりインスタグラムは投稿するには、写真を撮ったり、文章を打ったりとなんだかんだで結構手間のかかるものです。

(もちろん使い方にもよるけれど)

 

そのプロセスの中で、自分が意識せずとも「相手にこう見られたい」「こうは見られたくない」という心理が働いて、表に出されるメッセージは誰が見てもクリーンな、ポジティブなものになることがほとんどではないでしょうか。

 

何だかすごく性格悪いこと書いてるような気がしますが、ここで言いたいのはそれが悪いとかそういうことではありません。むしろ不特定多数の人に見られているSNSではそうあるべきです。誰かのことを傷つけることを書いてはいけないし、相手を暗い気持ちにさせることは避けるべきです。(このブログは読んでて暗い気持ちになる人はいるかもしれませんが笑)

 

それに誰しもが他の人に良く見られたいと思うのは至極当然のことで、「自己承認欲」なしに人は生きていけません。僕もこうしてブログを書いて、誰かに読まれて、批評なりなんなりをもらうことによってその欲を満たしているわけです。笑

 

ただそのSNSの「ポジティブ補正」という性質ゆえにその人の眩しい部分ばかり見えてしまって、その人の混沌とした闇の部分というのが全く見えない。もうね、光りすぎて目を開けてなれないくらいの眩い光を放っている人も中にはいます。笑

 

で、そういう投稿ばかり見ていると何でしょうか、その光の眩さにどこか影に隠れてしまいたくなる自分がいます。

その逆に「たまには光ってみようかな」なんて思って、仰々しく言葉を並べてみたはいいものの、何だか地に足がついていないというか、背伸びした文章に嫌気がさして、結局当たり障りのない文章を書いている自分がいます。

 

そんなこんなしてるうちに「やっぱり自分にはこういうの向いてないや」とか思い出して一回更新するのをやめてみたり。でもやっぱりほかの人のことが気になるからまた初めて見たり。ホントブレブレですね、嗚呼情けない・・・。

 

・・・ちょっと話が逸れましたが、要はこうやってSNSを投稿するプロセスの中には大なり小なりその人の思い入れがあるわけです。見る側もそれに応じて葛藤したり、励まされたり・・・。

 

でもその投稿がその人の「ありのまま」でないとしたら。それが「作られた」ものであったとしたら。むしろ僕はその裏側にある深い闇の部分を見てみたいと思います。

 

闇があればあるほど面白い。

こんなことを思うのは僕が真性のネクラ野郎だからに違いありません。笑

でもやっぱり人間、いつだってポジティブにはいられないし、いつだって楽しいことがあるわけじゃありません。いやむしろつらいことのほうが多いよ・・・。

 

そういう部分はSNSじゃ出てきません。でもSNS全盛期のこのご時世、こういったキレイで眩いメッセージが飽和しています。それを見て相手に嫉妬を覚えたり、人間関係に悩んだりするなんていうのも「SNS疲れ」の一種の症状でしょうか?

 

「私こんなに充実してる」「私こんなに幸せ」「私もよ」「あら私もそうなのよ」という見えの張り合いは疲れます。もちろんたまにはそういうのも必要ですが、それと同じだけ「あああの時はこんな辛いことがあった。」「ほんとやってられないわ」という苦労話、不幸話もあっていいかなと。

 

面白いことにそういう苦労話、不幸話もなんだかんだで笑い話になるし、むしろそっちのほうが盛り上がったりします。だからこそ、そういう中々人前では言えないような「闇」の部分をたくさん蓄えている人が「面白い人」なんじゃないかなって思います。

 

まだまだ僕も学生なのでこれから先もっと恐ろしい闇を抱えることがあるかもしれません。しかも人前ではそういったネガティブなものを見せずに、襟を正して生きていかなければいけないかもしれません。でもたまにはその混沌とした闇の部分を打ち明ける機会も必要だし、それが話のタネになると思います。

 

そんなこんなで闇の深い方、大募集でございます。笑

僕も今留学中なので、楽しいことと同じくらい、いやそれ以上のつらい経験をして、話のネタを増やしていくことに腐心して参ります。

 

かとけい

 

 

 

 

 

文系学問の有用性について。part2

マレーシアからこんにちは。

今回は前回に引き続き、文系の有用性について思うところを書いてみようと思います。 

 

すべての土台は文系にあり。

文系不要論の根底には「文系ー理系」という二項対立軸があり、理系との比較なしに文系の有用性を語ることはできない。つまりはこの文系不要論の中では「理系は有用性があるけど、文系は理系と比較して有用性がない」という前提がある。ここでの「有用性」とは「実用性」と言い換えることができる。

 

実用性。その学問が果たして社会の役に立つのかどうか。その知識が直接的な形で自分たちに利益をもたらすかどうか。理系であれば、医学の知識は人の病を治すのに役立つし、機械工学であればものを作り出すのに役立つ。理系の学問は目に見える形でその効果を表す『物質(もの)をつくる』力があるといえる。

 

文系の学問はどうだろうか。文系の学問は往々にしてその効果が見えにくい。論文という形で目に見える成果を残せてもそれ以上のものはなかなか生み出せない。それゆえに文系の学問は「役に立たない」という指摘がされるのだろう。たしかに文系の学問は直接的な形では私達の生活に関わってこない。この意味で実用性は無いかもしれない。しかし文系は理系の学問の生み出せない「価値観」を生み出すことに成功している。この価値観はすべての人間の創造物の根源にあるものである。

 

なぜモノは作られるのか?

少し話が抽象的になってきたので具体例をもとに考えよう。

なぜ人々は「洗濯機」を作ろうと思ったのか。

汚れた衣服をきれいにするため?

それも人の力を借りずにスピーディーにきれいにするため?

時間を短縮するため?

このどれもが正解である。これらの「価値観」が人々に洗濯機を作るように促したのである。

なんの考えもなしに急にモノづくりをしようとすることはありえない。

人々の行動には必ずその行動を起こそうとする理由がある。「価値観」もその人々の行動に影響を与える大きな一つの要素である。それが良いとされているからそのモノは生み出される。

 

理系の学問はこの価値観の成熟とともに発達してきた。良いものをより良く、良くないものをより良くしようとするのは当然のことである。私達はそのモノ作りのプロセスに目を向けがちだが、このモノ作りの根本にあるのは価値観である。なぜそれが良いものか、あるいは良くないものか。なぜ必要か、なぜ不必要か。それらの価値観の創出は当たり前かつ、自然のうちに行われるがゆえになかなかスポットライトを浴びにくい。

 

文系の学問はこの「価値観」の構築、分析、再構築を行う。

なぜその文学は生み出されたのか。その文学にはどういった文学的価値があるのか? 

先行研究の中で矛盾している点はどこか?

 

「どういった点で有用か」ではなく、まずその問の前提にある「有用性」というコトバに目を向け、「有用性=社会の役に立つもの」と言う認識をもたらしているものは何かといったことを追究することが文系の果たすべき役割である。

 

複雑な物事をシンプルに、シンプルな物事を複雑に捉える文系。

上記したように、文系の学問の真骨頂は「価値観創造」にある。

この価値観の創造は既存の物事を多角的な視点から捉え直すことから始まる。

シンプルなこと、当然だと思われてる事象を別の自称と結びつけて複雑に、

複雑な事象をある理論に基づいてシンプルに考える。

これが文系の研究ではないかと思う。

 

政治における政策決定のプロセスもこれに似たものがあると思う。

ある外交政策の合意形成の際に国内事情、国外事情を汲み取って慎重に検討していくこと。

難しい局面で過去の政策をモデルにして、打開策を考えること。

物事を抽象化、一般化、体系化すること。

価値観はこういったプロセスの積み重ねをもとに生み出される。

 

この価値観が定まれば後は一直線である。「実行」あるのみ。

こう考えると理系の学問は価値観を実行に移す学問といっていいだろう。

もちろんそのアイデアが形になったあとでも価値観は常に移り変わっていくものである。

「これを作ったのは、この技術を開発したのは果たして良いことだったのだろうか」

正しい価値観といったものを見つけるのは難しいが、常にその価値観を見定めることが文系の義務なのだろう。

文系学問の有用性について。part1

マレーシアからこんにちは。かとけいです!

 

今はお隣のタイに来ておりバカンスを満喫中です。また旅行が終わり思考の整理ができ次第、タイの記事を書こうと思います。

 

今日は高校の後輩とlineしていて話題にのぼった"文系学問の有用性"というマジメなテーマで思うところを少し。

 

 

広がる文系学問不要論。

"文系の学問なんて社会に出て役に立たない。" 

最近そんな声が良く聞かれるようになった。実際文系の学問を専攻している誰もがこの疑問を一度は抱き、自分の学んでいることが将来役に立つのかと不安になった経験があるのではないだろうか。

 

企業はそんな僕たちを待ってはくれない。死ぬまで哲学しても答えが出なさそうな"何のために学問をしてきたのか"に一定の答えを出すように迫り、さらにその学びをいかに企業に還元していくかという意地悪な質問を僕たち学生にするわけだ。

 

結果的に僕たちは企業の求める"即戦力"となりえるような学問のあり方を追求したり、さらには学問から離れたところにその答えを求めたりする。

 

有用性の外で、本気で学問をする学生に捧ぐ。

それが悪いとか良いとか言うつもりは全くない。しかしこのままでは"即戦力"とはならない学問を学ぶ学生たちがあまりにも救われない。

 

文系の学問に純粋に興味を持ち、授業の中でより優秀な成績をとったり、ユニークなアイデアを出そうと努力する学生。

 

" そんなの将来のなんの役にたつんだ"

勉強していたら一度は抱く疑念。

自分もある意味興味を持ったらとことん追求しないと気が済まない凝り性なところがあるから、こういった"文系不要論"に対して全く反論できないで悔しい思いをしてきた。

 

そもそも文系の学問に有用性を求めること自体不毛な議論かもしれないし、その学問を本気で学ぶ人達にはおせっかいなことかもしれない。

 

まあでもやっぱり言われっぱなしは悔しい。何か一言物申せないか。

 

ということで、ここではあえて"文系の学問に有用性を見出せるか"という問いを立てて、文系っぽく独断と偏見に満ちた推論をしてみようと思う。

 

 (長くなったので2回にわけます笑)