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文系学問の有用性について。part2

マレーシアからこんにちは。

今回は前回に引き続き、文系の有用性について思うところを書いてみようと思います。 

 

すべての土台は文系にあり。

文系不要論の根底には「文系ー理系」という二項対立軸があり、理系との比較なしに文系の有用性を語ることはできない。つまりはこの文系不要論の中では「理系は有用性があるけど、文系は理系と比較して有用性がない」という前提がある。ここでの「有用性」とは「実用性」と言い換えることができる。

 

実用性。その学問が果たして社会の役に立つのかどうか。その知識が直接的な形で自分たちに利益をもたらすかどうか。理系であれば、医学の知識は人の病を治すのに役立つし、機械工学であればものを作り出すのに役立つ。理系の学問は目に見える形でその効果を表す『物質(もの)をつくる』力があるといえる。

 

文系の学問はどうだろうか。文系の学問は往々にしてその効果が見えにくい。論文という形で目に見える成果を残せてもそれ以上のものはなかなか生み出せない。それゆえに文系の学問は「役に立たない」という指摘がされるのだろう。たしかに文系の学問は直接的な形では私達の生活に関わってこない。この意味で実用性は無いかもしれない。しかし文系は理系の学問の生み出せない「価値観」を生み出すことに成功している。この価値観はすべての人間の創造物の根源にあるものである。

 

なぜモノは作られるのか?

少し話が抽象的になってきたので具体例をもとに考えよう。

なぜ人々は「洗濯機」を作ろうと思ったのか。

汚れた衣服をきれいにするため?

それも人の力を借りずにスピーディーにきれいにするため?

時間を短縮するため?

このどれもが正解である。これらの「価値観」が人々に洗濯機を作るように促したのである。

なんの考えもなしに急にモノづくりをしようとすることはありえない。

人々の行動には必ずその行動を起こそうとする理由がある。「価値観」もその人々の行動に影響を与える大きな一つの要素である。それが良いとされているからそのモノは生み出される。

 

理系の学問はこの価値観の成熟とともに発達してきた。良いものをより良く、良くないものをより良くしようとするのは当然のことである。私達はそのモノ作りのプロセスに目を向けがちだが、このモノ作りの根本にあるのは価値観である。なぜそれが良いものか、あるいは良くないものか。なぜ必要か、なぜ不必要か。それらの価値観の創出は当たり前かつ、自然のうちに行われるがゆえになかなかスポットライトを浴びにくい。

 

文系の学問はこの「価値観」の構築、分析、再構築を行う。

なぜその文学は生み出されたのか。その文学にはどういった文学的価値があるのか? 

先行研究の中で矛盾している点はどこか?

 

「どういった点で有用か」ではなく、まずその問の前提にある「有用性」というコトバに目を向け、「有用性=社会の役に立つもの」と言う認識をもたらしているものは何かといったことを追究することが文系の果たすべき役割である。

 

複雑な物事をシンプルに、シンプルな物事を複雑に捉える文系。

上記したように、文系の学問の真骨頂は「価値観創造」にある。

この価値観の創造は既存の物事を多角的な視点から捉え直すことから始まる。

シンプルなこと、当然だと思われてる事象を別の自称と結びつけて複雑に、

複雑な事象をある理論に基づいてシンプルに考える。

これが文系の研究ではないかと思う。

 

政治における政策決定のプロセスもこれに似たものがあると思う。

ある外交政策の合意形成の際に国内事情、国外事情を汲み取って慎重に検討していくこと。

難しい局面で過去の政策をモデルにして、打開策を考えること。

物事を抽象化、一般化、体系化すること。

価値観はこういったプロセスの積み重ねをもとに生み出される。

 

この価値観が定まれば後は一直線である。「実行」あるのみ。

こう考えると理系の学問は価値観を実行に移す学問といっていいだろう。

もちろんそのアイデアが形になったあとでも価値観は常に移り変わっていくものである。

「これを作ったのは、この技術を開発したのは果たして良いことだったのだろうか」

正しい価値観といったものを見つけるのは難しいが、常にその価値観を見定めることが文系の義務なのだろう。