ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

MENU

日本人同士で英語で会話することは果たしてダメなことなのか。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

留学生の人ならだれでも悩みを抱える部分ではあることの一つ、「日本人同士で英語で話すことはダメなのか」ということについて今日は思うところを書いてみたいと思います。

 

日本人同士で英語で会話することの効用

結論から言えば、僕は日本人同士であっても英語で会話することは意味のあることだと思います。

 

留学に来ているのであれば、他国の留学生と英会話をする機会が増えるのでそんな必要にないように思えますが、例えば語学学校で周りに日本人が多かったり、ルームメイトに日本人がいるような場合は実際そのようなシチュエーションは十分あり得ます。

 

さらに言えば、留学を終えて日本に戻ってからは、身の回りの人はほとんど日本人、ということになるでしょう。英語を使った授業では日本人が大多数の中で英語を話すことになります。

 

英語で話すということは「英語でのアウトプットの機会を増やす」ということに他なりません。相手が日本人である場合は、たいてい間違った英語を話しても日本人お得意の「察する文化」でなぜか通じ合ってしまうため、正しい英語を話しているかどうかは確かめられませんが、とにかく口を動かして英語を話す練習にはなるでしょう。

 

にもかかわらず、僕たち日本人の多く(一括りにはできませんが)は「日本人同士で英語を話すこと」に抵抗感、さらには嫌悪感さえ覚えるのはなぜでしょうか。

 

 

なぜ日本人同士で英語を話すことを嫌がるのか

これに関しては大きく分けて、3つの外的・内的要因があげられると思います。

 

①「日本人なら日本語で話したほうが便利」

これを言ってしまったらもう終わりですが、日本人なら日本語で話したほうが100倍楽に決まっています。「なんて言ったらいいのかな・・・」なんて悩む必要ないです。頭の中で考えたことをほぼ瞬時に日本語で表現できます。なのになんでそれをわざわざ英語で言わなきゃならないの?

 

・・・まあそれは本当にその通りなんですが、「英語で話せるようになること」が目標ならば、日本人同士であっても英語で話すことがその一番の近道に決まっています。日本語だってそう。僕たち日本人は普段から日本語で話しているから日本語が話せます。

 

しかしながら、私たちはその目標を掲げながらも、そのうちに英語で話すことがめんどくさくなってきて、「日本人同士で英語話してるのなんか変じゃな~い、ダサくな~い」とさえ思えてきて、英語で話すことをやめてしまうのです。

 

 

②他の日本人の英語に対しての厳しい目線

僕的にはこれが一番の理由かなと思うんですが、日本人はほかの日本人の使う英語に非常に批判的な目線を向けてしまう傾向にあると思います。

 

日本では「ネイティブスピーカーのように話せるのがかっこいいし、それが一番だ」というネイティブ英語への恐ろしいまでの執着心があり、訛りのある英語、文法的に間違っている英語は英語とすら思っていないのではないか、とさえ感じることがあります。(言い過ぎかも笑)

 

中国人、インド人英語は標準的なアメリカ英語、イギリス英語と比べればかなり訛っていますが、それでも彼らの話す英語も立派な英語のひとつです。

 

それなのに、日本人の多くは「ネイティブのような完璧な英語を話さなければいけない」と思っていて、そのレベルに達するには途方もない時間がかかることを知っているのに、なぜかそこが「全員の目指すべきゴール」のようなものになっている気がします。

 

そういった思い込みから「あの人の話す英語の発音はちょっと・・・」とか「そんな言い回しはネイティブはしない」といった同じ日本人への英語批判が始まってしまうのではないでしょうか。

 

たとえ周りの人が直接的にその人に英語批判をしなかったとしても、当の本人は「みんな自分の英語を批判的な目線で見ているに違いない」と思い込んでいるから、「日本人の前で英語を話したくない。恥ずかしい」というところに行き着くのではないでしょうか。

 

③一部の英語を話すのがとてつもなく上手い日本人が「英語ができる人」のモデルになっている

これは②の「日本人の他の日本人への英語批判」とも関連していますが、「ネイティブスピーカー」への異常な信仰心が、一部のネイティブのように話す日本人(特に発音面でネイティブのような発音で話す人)を「英語ができる人」の基準にしているのではないかと思います。

 

裏を返せば、「英語がいかに早く読めようとも、発音が悪い人」は「英語ができない人」として見られてしまうことが多いのです。つまるところ、日本で『英語ができる人』になるには「TOEICで900点をとる」か「発音をネイティブ並みにする」かの2択になるのです(超乱暴に言ってしまえば笑)

 

その日本の『英語できる人』像がかなり歪んだものであることは言わずもがなですが、さらに問題なのはこれが「英語の上達には段階がある」という当たり前に思える事実を見えなくしてしまうことではないでしょうか。

 

つまり、日本では英語学習者が「英語ができる人」か「英語ができない人」の2つしかないのです。英語のレベルはそんな「1か0か」の世界では図れないもので、発音にしても「相手にところどころ聞き返されるレベル」「不明瞭ではあるが、ほぼ聞き取れるレベル」といった上達段階があるはずです。

 

この「英語できる人/ できない人」という極端な振り分けが、日本人英語学習者の多くに「英語できない人」というレッテルを張り、「『英語できる人』に私なんかが英語を話すなんておこがましい・・・」なんてネガティブすぎる感情を生んでしまうのではないか、と考えています。

 

少し話が本題とずれてしまいましたが、「英語できる人/ できない人」というレッテル張り(二分法)が「英語学習者のレベルは様々で、どのくらい話せるかも人による」という事実を隠蔽して、ともすれば「英語ができない」英語学習者に「英語ができる」英語学習者とコミュニケーションを図ることへの劣等感を抱かせることになっているのではないか。

 

もっと簡単に言えば、「私英語全然できないし、あんな英語話せる日本人にわざわざ英語で話しかけるなんて自殺行為。馬鹿にされるに決まってるわ」と勝手に思い込んでしまわせてしまうような社会構造があるんじゃない?っていうことです。実際は「あんな英語話せる日本人」も本人は「英語が話せない」と思っているかもしれないし、さらに上にいる日本人学習者とは英語で会話したくないとさえ考えているかもしれないのです。笑

 

 

日本人同士の英会話で「英語恐怖症」に陥ってしまわないためには。

さてさて、いろいろ長々と書いてしまいましたが、まあ要するに「日本人同士の英会話でも意味があるんだから、恥ずかしがらずにどんどん英語を話そう」ってことなんですが、その恥を捨てるのが大変。

 

もうこれは「気にしない」しか方法はありません。

 

特に留学から帰ってきた人たちは「留学してたんだし、英語話せるんだよね」という外からの期待と戦わなくいけなくなります。その中で、日本人の前で英語を披露する機会も間違いなく出てくるでしょう。自分の英語力に自信がある人はベラベラと話せるでしょうが、僕のような「中途半端な英語力」を持っている人、あるいは他人から見たら流暢に英語を話せるのに、自分では満足しきれていない人は大変です。

 

ももうそれは気にしたら負けです。

 

『ネイティブのようには話せない。傍から見たら『英語できない人』に見えるかもしれない。留学していたのに恥ずかしい。だから英語で話すのは避けて、できるだけ日本語で(???)』

 

これでは何のために留学したのかわかりません。もちろん語学上達だけが留学の目的ではないことは確かでしょう。それにしたって、多少なりとも誰しもが「英語で話す経験」を日本以上に留学先でしていると思います。

 

だから恥ずかしくたって、実際に恥をかいたって、英語のスピーキングを上達させるには英語は話さなきゃいけない。ある意味、留学生の使命かもしれません。

 

「あの人より英語話せない」と劣等感を持つかもしれませんが、そう思ったあなたも「英語をできない人」ではありません。

 

プライドなんてさっさと捨てて、大きな声で自分のスピードで英語を話す。日本にいたって、英語で緊張しながら話してるその一秒一秒が自分の英語の成長の一助になっているはず。

 

そう自分に言い聞かせて、今日もまた頑張っていきましょう!

・・・以上、ほぼ自分への戒めに近い投稿でした。

 

かとけい

 

 

 

 

アメリカ英語、イギリス英語だけが英語じゃない! オーストラリア英語ってどんな感じ?

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

私事ですが、先日オーストラリアのシドニーに行って参りました。

景色や食べ物もさることながら、僕が関心を持ったのはオーストラリアの人々が話す「オーストラリア英語」です。

 

今回は、メジャーな「アメリカ英語」「イギリス英語」にとって代わる「オーストラリア英語」の魅力をわかりやすくお伝えしたいと思います!

 

オーストラリア英語は訛りが強い!?

シドニーの国際空港に着いて、空港の職員さんの英語に耳を澄ませてみると、いつもとは少し違う聞きなれない英語が聞こえてきました。

 

「確かにこれは英語だけど、アメリカ英語みたいにrが強く発音されるわけでもなければ、イギリス英語みたいに流れていく英語ともちょっと違うような・・・」

 

それが僕のオーストラリア英語の第一印象でした。

 

どちらかというとイギリス英語に近いですが、BBCのアナウンサーが話しているようなイギリス英語とも違うし・・・。なんとも不思議な感じでした。

 

もちろん僕の英語のヒアリング力がそこまで高くないこともありますが、普段は60~70%くらいは聞き取れている英語が30~50%くらいしか聞き取れませんでした。

 

これはマズいと思い、マレーシアに帰国してからオーストラリア英語について少し調べてみました。

 

オーストラリア英語はイギリスの下町の英語!?

オーストラリアはもともとイギリスの植民地であり、イギリス本土からたくさんの労働者がオーストラリアに移住させられた歴史があることから、多くのオーストラリア人は「ロンドンの下町」の英語、いわゆる「コックニー」に近い英語を話します。

 

コックニー」(Cockney) とは、東ロンドンの、主に労働者階級の人々達が話す英語、およびその人たちのことを指します。

f:id:kato-KL:20170410012414p:plain

 

詳しくは次の動画の中で詳しく説明されています。百聞は一見にしかず?です。

www.youtube.com

 

 

ここが面白いよ、コックニー

もちろんオーストラリア人の話す英語がコックニーそのものであるとは言えませんし、単に「オーストラリア人」といっても中華系の人もいれば、インド系の人もいて、それぞれが違った訛りを持っています。ただ、このコックニー調で話す人も多いので、知っておいて損はないでしょう。

 

以下、動画でも説明されていますが、コックニーの発音について詳しく見ていきます。

 

th音 thの発音はオーストラリアでははっきり発音されません。そのため[θ]は「f」に、 [ð] は [v] に近い音になります。例えば、"mother"は"mover"、"something"は"somefing"と聞こえます。

 

h音 hの音は脱落することが多いです。そのため"have"は"ave", "house"は"ouse"になります。

 

母音 BBCなどで聞かれるような標準的なイギリス英語RP(Recieved Pronounciation) に比べ、母音が強く発音される傾向にあります。eiの発音は「ai」になり、「day」は、「daɪ」という発音になります。さらに、/iː/が[əi]、/aɪ/が[ɒɪ]、/ɔɪ/が[oɪ]になって、/aʊ/が[æː]になるなど複雑に変化します。個人的にはこの母音の変化、強調が日本人には聞きなれないものとして耳に残ると思います。

 

 

・・・こんな感じで、ざっくり見てもアメリカ英語、イギリス英語とはかなり違うことがわかると思います。

 

ここでひとつ面白い小ネタを紹介します。

オーストラリアの病院に入院していたイギリスの婦人が、ある日担当医からある言葉を言われて泣き出してしまったそうです。

 

オーストラリア人の医者は"You can leave today"(今日退院できますよ)といったつもりでした。

ところが、オーストラリアでは"today"が"todai" (トゥダイ)と発音されるため、イギリス人の婦人はそれを"To die" と勘違いしてしまったのです。

イギリス人の婦人からしてみれば、"You can leave to die" (死ぬために退院してください)と言われたのだから、かなりのショックだったでしょう。笑

f:id:kato-KL:20170410013734p:plain

 

このように、オーストラリア人はコックニー調で母音を強く読むことが多い傾向にあっります。

 

こんな風にその地方ごとに英語の特徴を見ていくと面白いですね!

 

 

オーストラリア英語に慣れたい方、またもっと聞いてみたい方はこちらのオーストラリアのドラマシリーズがおススメです。刑務所を舞台にしたややシリアスなドラマですが、ストーリーが秀逸なので飽きずに継続してみれること間違いなしです!

www.amazon.co.jp

 

 

それでは今日はこのへんで!

 

かとけい

 

 

 

 

とある交換留学生の日常。 ~留学生のスケジュールはどうなっているか?~

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

留学を今後に控えている学生や留学したいと思っている人、「留学生ってどんな風に一日を過ごしているの?」と疑問に思ったことありませんか?

今回はマレーシアに派遣留学にきて半年になるへっぽこブロガーがその疑問にお答えします。

 

マレーシア留学生の日常

まずはざっくり平日のスケジュールを書いてみます。

f:id:kato-KL:20170410002700p:plain

睡眠(25:30-8:30):  僕は基本夜型なので、夜遅く寝て朝遅く起きます。笑

 

朝食・移動(9:00-10:00): 起きる時間は日によってまちまちですが、だいたい授業が10時くらいにあるので、その1時間~1時間30分前には起きて、学校に行く支度や朝食を食べたりします。

 

授業① (10:00-12:00): 午前の授業は10時から12時までの2時間で、教授からレクチャーを受けて、あらかじめ予習してきたことを思い出したり、新しく習うことをメモしたりします。

 

昼食・移動 (12:00-13:00): お昼は食堂に移動して、ローカルの学生や留学生とともに昼食をとります。食堂が混んでいるときは時間をずらして食べたり、テイクアウトしたりします。

 

自習 (13:00-15:00):残った宿題をこなしたり、授業で使われるプレゼンテーションを事前に読んでおいて授業へのイメージをふくらましておきます。といっても毎日そんなことしてるわけではなく、学校のパソコンでNetflixを開いて海外ドラマを見たりしています。笑

 

チュートリアル (15:00-16:00): チュートリアルでは基本的に毎週プレゼンターが授業の内容に関連したプレゼンテーションを行います。プレゼンの後は教授の解説が入ったり、質疑応答の時間がとられます。

 

授業②(16:00-18:00) : 午後の授業はだいたいこの時間帯です。正直この時間帯になると結構疲れがたまってきます。それは教授たちも同じようで、18:00前に授業が終わるように超スピードで授業を進めたりします。笑

 

 休憩 (18:00-20:30): フリーシャトルに乗って学外にあるアパートに戻ります。(学内の寮に住んでいる学生もいますが、僕は前期から学外でほかの留学生とルームシェアをしています)この時間はyoutubeを見たり、睡眠をとったり、と一日の疲れをいやす時間にしています。

 

自習 (20:30-25:00): 明日の授業の予習をしたり、レポートを書いたりします。もちろんこの時間帯にずっと勉強してるわけではなく、海外ドラマをみたり、疲れがたまっているときはさっさと寝てしまったり様々です。

 

 

 

 ・・・こう書いてみると、結構一日中勉強漬けのような感じがしますが、もちろん午前中しか授業がなかったり、そもそも授業がない日もあったりするので一概には言えません。

 

ただもし英語力に自信がなかったり、僕の通っているマラヤ大学はそれほどですが、宿題の量が尋常じゃない大学もあると思うので、もっと勉強している人もいる(というかそっちのが多いかも)はずです。

 

 

勉強も大事だけれど・・・

f:id:kato-KL:20170410005351p:plain

「え、そんなに勉強しないとダメなの?」「もっと外出して英語で話す環境にいたい」という声もあるでしょう。

 

もちろん今回僕が示したようなスケジュールはその一例でしかないし、もっと勉強している人もいれば、勉強以外のこと(インターンシップやスポーツ)に時間を割いている人もいると思います。

 

これが正解!というものはないです。大事なことは「他人に流されず、自分のやりたいことをやること」、これに尽きると思います。

 

勉強そのものに興味があって、とにかく知識を深めたい人は勉強をすればいい。

就職のことも意識して、インターンシップや課外活動に励みたい人はそうすればいい。

 

一番ダメなのはほかの人に流されて、やっていることすべてが中途半端になってしまうことだと思います。かくいう僕も、この留学の期間内でかなりブレました。笑

 

このブログを読んでくれている、これから留学される方にはどうか芯をもって、最初に決めた目標を達成できるようにとにかく一生懸命になってもらいたいと思います。

 

留学をしているとほかの留学生や日本での就活などが気になって、本当に自分がしたかったこと、成し遂げたかったことが見えなくなってしまうときがあります。でも、せっかくの留学、他人に振り回されて終わるのはもったいない。

 

他人に何と言われようと、最後に決めるのは自分なんです。自分の好きなように自分の時間を使って、他人ではなく、自分が思う「最高の留学生活」を達成できるようなスケジュールを組むこと。

 

 

 

・・・最後は少し大きな話になってしまいましたが、ぜひ皆さん自分が満足できるような留学生活を送りましょう!

 

生意気に大きなことを書いてしまいましたが、僕もこれからが頑張り時なので、精進していきたいと思います。

 

かとけい

 

文章を見れば、その人の人となりが見えてくると思う話。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

前回の国際関係論についての記事の続きを書こうかと思ったのですが、それはひとまず置いといて、今日は「文章とその人の性格」について思っているところを書いてみようと思います。

 

f:id:kato-KL:20170328114033p:plain

 

ブログを書き始めて感じた「ありのままの自分」。

留学に来る前の8月からこのブログを書き始めて、はや50記事に到達しそうというところまできました。ブログを一から読み返してみると、はじめの方の文章と今書いている文章では全然書いているテーマも違えば書き方も少し変わってきているのかなと思います。それに初期の方は結構何が言いたいのか自分でもよくわからない記事が何個かあります。笑

 

正直変にカッコつけてて、今見るとかなり恥ずかしい記事もあるので削除して無かったことにしたいなとも思うんですが、それも思い出の一つとして残しておくことにします。

 

ブログの中ではあーでもこーでもないとざっくばらんにも色々書いてきました。その中で虚勢を張っている自分、悲観的になっている自分、それをなんとか鼓舞しようとしている自分、そんな自分を褒めてあげたいと思っている自分などいろいろな自分を見つけました。なんとも自己憐憫の情にあふれた、というか女々しいというか。まあでもそのどれもが他の誰でもない自分なんだなと実感しています。

 

書き手になってみてはじめてわかる「書き手の視点」

こうやって書き進めているうちに他の人の書いた文章を見る視点も変わってきて「この人はどんな意図でこの文章の中でこの単語を使っているんだろう」と書いている人の気持ちになって文章を読むようになりました。

 

やっぱり人によって文章のスタイルも、使う語彙も、扱うテーマも全然違います。ちょっと気の利いた言い回しを使う人、物事をシンプルに説明する人、その逆ですごく難しい用語を使って説明する人。いろんな人がいます。

 

どれが一番いいかは言えませんが、僕の中では皆さんの書く文章の中で「いいなー、こんな文章が書きたい。」と思える文章の書き方があります。

 

 

僕の好きな文章の書き方。

僕が読んでいて好きな文章は「自分に素直な文章」です。「素直な文章」というのは、その人がどういう環境で育って、どういう生き方をしてきたのかが読んでいるうちに自然とわかる文章です。別の言葉で言えば「人間臭い文章」です。

 

別に書いてあることが整理されていようが、されていまいがそれは関係ありません。うまく言い合わせないけれど、の人の今の気持ちと言葉がシンクロしている文章、そういう文章に惹かれます。ありきたりで当たり障りのない言葉ではなく、その人の人となりが表れている文章。そんな文章が僕は好きです。

 

 

…なんか告白してみたいで気持ち悪いですね。笑

 

でも文章って本来はそういうものじゃないかと思うんです。論文などの形式張ったものはその場に適した言葉を正確なタイミングで使うことが求められますが、SNSなどではもっと自由に言葉を扱えます。そういう半ば無意識で書かれた文章にこそ、その人の本性みたいなものが垣間見えるがするんです。

 

だから逆に言えば、何だか月並みの、優等生みたいな文章は僕は大嫌いです。文章の構成であったり、言葉の選び方のチョイスも間違ってはいないのですが(上から目線でごめんなさい)読んでいて書いている人が全く見えてこないというか、文章がすごく無機的なもの。

 

文章の中で自分のことをメインに書いていないとしても「素直な文章」にはその人の人となりがおぼろげですが見えます。でもそうでない文章は自分の感情を掻き立てるものがないというか、すぐ頭の中から離れていって記憶に残りません。

 

 

気持ちを思ったままにストレートに表現する。

書いている人が素直であれば、その文章での感情が正のもの(うれしい、楽しい、ありがとうの気持ちなど)であっても負のもの(悲しい、辛い、嫌いなど)であってもその気持ちがストレートに読む人に伝わります。

 

「優等生」の文章はその感情が全く伝わりません。文章に感情をあらわす言葉があるけど、それがすごく空虚な響きをもって感じられるときがあります。それは僕の中で書いている人と書いている文章がリンクしていないだけかもしれないけど、「素直な文章」にはあって、「優等生」の文章にはない「何か」があって、それがとてつもない違和感となって襲ってきます。

 

僕自身は自分の感情をあまり素直に出せない方なのですが、それでも「優等生」の文章にはならないように、と気をつけているつもりです。このブログを通して、多少なりとも僕がマレーシアで感じたこと、考えたことが読んでくれている方の何人かの共感を得られれば、何人かの役に立てられればと思っています。

 

こうやって自分が「素直でありたい」と思っているからでしょうか。僕は心の底から(この言葉も月並みですが)「素直な文章」がかける人が羨ましいし、たとえその人が僕の知らない人であっても会いたいという気持ちになります。

 

 

「その人の人生は、その人の文章のコンテクストになる。」

「自分らしい文章」というのはその人の文章力の高さとか頭の良さとかそんなものではなくて、書く人がいかに自分と向き合って書けるかによると思います。だから例え文章的にちょっとおかしなところがあっても、「あ、この人らしいな」と思える着飾らない文章は好感が持てるし、次も読みたいと思わせてくれるのだと思います。

 

前もどこかで書いた気がしますが、僕の好きな言葉の中に「その人の人生は、その人の文章のコンテクスト(文脈)になる」という言葉があります。その人がどう生きてきたか、そして今何を考えているのかは、その人の文章のスタイルに大なり小なり影響を与えます。

 

無理に自分の身の回りの人に合わせて、それを文章のコンテクストにして、自分が本来持っているはずのコンテクストをなくしてしまうのはもったいない。無理にポジティブな言葉で終わらせなくてもいいので、とにかく自分の言葉で書ききる。そういう素直な、ともすれば少し頑固な文章が好きです。

 

まだ大学生で社会を知らない甘ちゃんだからかもしれませんが、それでも社会人になってからも万人受けする「優等生」の文章ではなく、誰か一人でもいいからその人の心にグッと刺さるような、そんな「素直な」文章を書いていきたいものです。

 

 

今回はこのへんで。

かとけい

 

 

 P.S.

優等生の文章には「うまく書かないと」というノイズがあるのかもしれません。僕も英語で文章を書くと文法的におかしな点がないか、ちゃんと気の利いた言い回しが出来ているかなどというノイズが気になり、肝心の自分の気持ちをおざなりにしているときがあります。

 

そういった文章は後から自分で読んでても「何か」が欠落していて、どこか不完全な文章に見えるときがあります。やっぱり自分らしさが滲み出る文章を書くにはそういった外的なノイズを一度シャットダウンする必要があるかもしれませんね。

 

「ドラえもん」でわかる「国際関係論」その① リアリズム編

こんにちは、マレーシアからかとけいです。

怒涛のプレゼン地獄が終わり、今度はエッセイ執筆が始まりました。

といっても今回は1000words程度のエッセイが2つなので、ゆっくりじっくりやっていこうかなと。

 

2つともエッセイのテーマは「国際政治」についてなのですが、ただ授業で習ったことを書くだけじゃつまらないので、別の授業で学んだ「国際関係論」の理論を絡めながら書いていこうかなと思っております。

 

そういえばちょいちょいブログで僕のこちらの大学の(一応)専門の「国際関係論」について話をしますが、ほとんどの方にとってはあまりの馴染みのない学問領域かもしれません。ということでまだこっちの大学に来て1年もたたないへっぽこ学生ですが、専門外の人にもわかりやすく、なおかつちょっとでも興味を持ってもらえるような形で「国際関係論」を紹介します。

 

「国際関係論」ってそもそも何なの?

※国際関係論を真剣に勉強し始めて、一年もたたないほぼ初学者なのでこれから書くことは完全に僕の妄想に過ぎないとおもっていただいて結構です。笑

 

国際関係論(International Relation)を平たく言いますと「国家と国家がどのような関係を築いていくか」を研究する学問でございます。(そのまんまですね笑)具体的には「なぜ国家と国家が戦争をするのか」であったり、「グローバル化の中で国家はどのようにほかの国と利害の調整を図っていくか」ということを客観的な視点から分析するということになります。

 

まあだからといって一から国と国の歴史を追って、理論を組み立てていくってわけではなく、ありがたいことにもう国際関係論の分野には国家はこうやって動いていくんだよ!っていう頭の切れるエラい学者さんたちがまとめた「三大理論」(Realism, Liberalism, Social Constructivism) が存在してて、これをもとに「この理論に当てはめたら、あの国とあの国がこうやって戦争してるかわかるね!」っていう推論をしていくわけでございます。

 

ドラえもん」を国際関係論的に科学する① リアリズム編

国際関係論をわかりやすく解説みてみた。系のサイト結構見ますが、どれも結構かしこまった言葉で書かれていて、なかなかスナック感覚で読めるものがない気がします。

今回は国際関係に全く興味がない方にもわかりやすく、なおかつ興味をもってもらえるようにするため、国民的アニメ「ドラえもん」を使って説明しましょう。
 
 
ドラえもんに見る「リアリズム」】
ジャイアンは基本的に自己中心的に行動します。「俺様のものは俺様のもの。お前のものも俺様のもの」(ジャイアニズムが彼の行動原理です。こうしてジャイアンはいつもいつものび太にちょっかいを出しています。
 
(そうそれがジャイアニズム

f:id:kato-KL:20170327025330p:plain

 

しかし実はジャイアンがこのような行動をとるのはのび太のやつが俺のものを盗むかも」とひそかに心の中に思っているからかもしれません。だから「盗まれちまう前に、盗んじまえ」というのがジャイアンの言い分です。
 
こうしてジャイアンのび太は常に対立関係にあるわけです。ただ対立関係とはいってもジャイアンが圧倒的に力が強い。のび太は怯えてドラえもんにすがるしかないわけです。やがてのび太ドラえもん、しずかちゃん擁するのび太陣営」ジャイアンスネ夫擁するジャイアン陣営」に分かれて、いわゆる「冷戦」が始まるわけです。
 
 
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【解説】

さて、このジャイアンの「やられたらやり返す。倍返しだ」ではなく「やられる前にぶん殴る」というジャイアニズムからなる対立のしくみが国際関係論の中ではRealism (現実主義)にあたるものです。(※これはかなり乱暴なまとめ方です。もちろんRealsimの中にも様々な学派が存在しています。誤解のなきように)

 

リアリスト(リアリズムを唱える人)は国家がこのいわゆる利己的で搾取的な 「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアニズム精神を持っていると主張します。

別の言い方をすれば、リアリストは人間の本性は「人の上に立ちたい」という邪悪なものであると言っていて、この人間の本性こそが国家を動かすものだと考えているのです。だから国際関係は「権力闘争」「自己利益の最大化」に満ちていて、国家は生き残りをかけてしのぎを削っているものというのがリアリストの主張です「争いのない世の中が一番です」という理想を語る人たちに「お前ら現実を見ろ!国家はみんなジャイアンみたいに自己中心的な奴らだぞ!」と言っているんですね。

 

このように、リアリズムの考え方は僕たちの感覚から言えば「乱暴で、喧嘩屋」みたいなイメージがあることから、一般に日本ではこういったリアリズムの主張は少数派で、なかなか受け入れられにくいものだとわかると思います。ただ国際関係論の中ではこのリアリズムは主流のものとして受け入れられています。学者さんの中にもジャイアン好きが多いんですかね。

 

ジャイアンはRealismでいうところのヘゲモニー(覇権)国家です。文字通りドラえもんの世界ではジャイアンは覇権を握っていて、のび太ドラえもんさえも道具なしでは勝てません。ドラえもんの道具は国際関係でいうところの「核兵器」でしょうか。これにはジャイアンも黙るしかありません。ドラえもん恐るべし。
 
 (間違ってもこんな風には思ってはいけません)
 
さて、ジャイアンの心の中には「のび太が俺のものを盗むかもしれない」という猜疑心があると書きました。彼はその疑いをだんだんと強めていって、もしかしたらのび太ドラえもんの道具に屈しないように裏では筋トレをしてるやもしれません。これを国際関係論の中では「安全保障のジレンマ」(security dilemma)といいます。国家は他の国家に対して常に「自分の利益、領土が侵略されるかも」という不安を抱いていて、その不安ゆえに自国の軍隊の増強に励みます。それに気づいて他国もその国に負けじと自国の軍備を整えます。ドラえもんでいう、のび太もビルドアップ始めるってことになります)この繰り返しの結果、かえって両国家の安全保障面において緊張が高まるということですね。
 
(画像あるのかよ)

f:id:kato-KL:20170327024517p:plain

 
はい、次です。のび太くんはビルドアップの甲斐むなしく、ジャイアンにボコボコにされてかえってきます。でものび太くんはまだ諦めない。のび太君にはドラえもんがいます。のび太君はドラえもんの道具(=軍事力)を使えば、ジャイアンにやり返せると信じて疑いません。なんてったってドラえもん核兵器もってんだから。
 

f:id:kato-KL:20170327024716p:plain

 

 
国際関係でもこれと同じことが起こります。軍事力を持たない国、あるいは軍事力が他国に比べ弱い国は、軍事的に力を持つ国と提携を結んで自国を他国から守るようにするのです。次第に大国がほかの小国と軍事提携を結んで「連合」を作ったりするわけです。
 
のび太はリアリストかも)

f:id:kato-KL:20170327025715p:plain

 

 

これが最終的にアメリカに代表される「資本主義陣営」ソビエト連邦社会主義陣営」にわかれるようになるんですね。この2陣営は勢力的に均衡していて、この均衡状態によって世界の秩序は保たれる。これを国際関係論では勢力均衡論(balance of power)といいます。このような対立の流れがリアリストたちの冷戦に対しての見解です。リアリストたちはこの均衡論を信奉したがために、冷戦の終わりを予想できなかったんですね。

 
ドラえもんの言う通り)

f:id:kato-KL:20170327024914p:plain

 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さてここでリアリズムの解説は終わりですが、気づいたら結構記事にボリュームが出てしまいました。笑 今回はこの辺にしておきますね。
次回(もし皆さんからのウケがよければですが)は今回のリアリズムとは双璧をなす存在である「リベラリズム」について、またドラえもんの例を使って紹介したいと思います。ではでは今日はこれにて。
 
かとけい
 
P.S. 国際関係論を「ドラえもん」を使って説明するの割と新しいとおもったんですが、ググったらもうほかの人に先越されてました。笑
興味のある方はこちらもどうぞ。
 

www.riabou.net

 

 

 
 
 
 
 
 

 

それでも僕は、勉強がしたい。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

ここ1カ月は毎週のようにプレゼンがあってなかなか忙しいですが、不思議なことに僕はこういった勉強を嫌いになれないでいます。いやむしろ好きなのかも。

 

僕も来年の今頃には就職活動の真っただ中にいると思うのですが、今こうしてマレーシアで感じている「もっと知りたい」「もっと突き詰めたい」という思いを忘れずにこれからも頑張っていきたいと感じています。

 

 

f:id:kato-KL:20170325163456p:plain

勉強はやればやるほど面白くなる。

ここマレーシアに留学するようになってから、日本にいたときとは比べ物にならないくらい勉強をするようになりました。もちろんここでいう「勉強」とは足りない英語力を何とか補うための「語学勉強」も含みますが、最近はそれ以上に単純に「もっと知りたい」という知識好奇心で専門分野の勉強をしています。

 

大学の「勉強」というのはいわゆる受験勉強とは違って、「研究」に近いニュアンスを含んでいると思います。受験勉強ではとにかく教科書に書いてあることを暗記して、いかに正確に問題の答えを導き出せるかを学ぶものです。一方で大学では、そのように決まりきった答えを出すことよりも、自分の独自の視点で物事を見て自分なりの答えを導きだすことが求められます。(特に社会科学系の学問はその傾向にあるように思います)

 

もちろんただ教授の授業を聞いているだけでは「知識の拡充」だけで終わってしまいますが、それをプレゼンやレポートでアウトプットすることを通して初めてその知識を自分のものにできて、相手に説明することができるようになります。ただこの知識を吸収して、応用できるようにするのには相当な時間を勉強に費やさなければいけません。

 

恥ずかしながら、日本では僕はそういった努力を怠ってきました。授業も出たり出なかったりで、一夜漬けに近いこともしたことがあります。確かにこれでもありがたいことに授業の単位はいただくことはできました。その結果、僕は「大学の勉強なんて単位をとるためのもので、何の役に立つものでもない」なんて極端な考えに走るようになりました。

 

でもこうしてマレーシアに来て、真面目に勉強するようになって、今までの自分がなんて馬鹿なことをしてきたのか思い知らされました。こちらの大学のローカルの生徒は勉強が忙しくて、アルバイトなんてする時間がないと言います。でも彼らにとっては勉強は強制的なものというよりかは、自ら進んでやるものという意識があるようです。僕も最初は結構勉強が苦痛だと思ったことがありますが、勉強を進めていくうちに勉強すること自体が面白いものだと感じるようになりました。そして「勉強は勉強するほど面白くなる」「噛めば噛むほど味が出る」スルメみたいなものだと気づきました。

 

学んだことが徐々に頭の中で体系づけられていく感覚。

それまでは興味を持てなかった政治的なことがオモシロいと思えるようになること。

今まで見てきたものが表面的なものでしかなく、もっと深い視点で見れるようになること。

大学の勉強はこんなにも面白いと気づけたのはこの留学の大きな収穫の一つです。

 

大学の勉強に『実用性』はない。それでも僕は、勉強がしたい。

「大学で学ぶことは社会に出て何の役にも立たない」

確かに大学で学ぶことそれそのものは社会に出てすぐに役立つものではないでしょう。

特に今僕が勉強している「国際関係論」「安全保障学」「イスラム法学」といったものに企業の求める「実用性」はほとんどないと言っても等しいでしょう。笑

 

ただ先ほど言ったように僕にとって「勉強(研究)はそれそのものが楽しい」もので、目先の利益を獲得するためにやるものではありません。もちろん、実用性のない学問に学ぶ意義を見出せない、という人もいると思います。将来につながる学問のほうがモチベーションを保てることにつながるのは確かでしょう。

 

ただこういった実用性のない学問は「すぐに役に立たない」けれど、「後から必ず役に立つもの」だと思います。政治学や宗教学はお金には変えられないけれど、自分の中で知的財産として残り続けるものです。同じニュースを読むにしてもそれを学んだか、学んでいないかで理解力に大きな差が出ます。偏ったマスコミの報道に流されることなく、自分の頭で考えて物事の本質に気づく能力を養う上でもこういった教養は欠かせないと思います。

 

日本ではこういった勉強を大学生のうちからしている人は少ないし、自分もまたその一人でした。もちろん大学生活をいかに過ごすかは人それぞれです。サークル活動やアルバイトに精を出す人もいれば、趣味に没頭する人もいると思います。大学でやることは人それぞれです。ただ、その中でも「真面目に勉強している生徒」をバカにする風潮があるのは残念なことだと思います。「大学で真面目に勉強したって就活で何の役に立たないよ」という声もありますが、果たして就職に役立つことだけ学ぶのが大学でしょうか?大学はただの就職予備校に過ぎないのでしょうか?彼らは「学びたいから学んでいる」のです。歌を歌いたいからカラオケに行くのと同じです。そしてそうして好きで没頭したことは、それが何であれ、自分のこれからの糧になると思います。

 

おそらくですが、「大学の勉強は役に立たない」という先入観が僕たち大学生から学びを遠ざけ、その結果として「大学の学問はオモシロくない」と思わせているのではないでしょうか。大学院に行くとしても、就職をするにしても、その性質は違えど、自分たちの日常から「学び」を切り離すことはできません。もし僕たちが「大学の学問は将来の役に立たない」という『常識』を信じて疑わないようであれば、将来「ああ大学でもっと政治や経済について詳しくなっておけば」と後悔することになり兼ねません。今すぐ役に立たなくても、将来それが巡り巡って「何か」(それが仕事なのか、暮らしそのものなのかはわからないけど)の役に立つことを信じて勉強すること、それが大切だと思います。その中で勉強そのものが楽しくなれば、儲けものではないでしょうか。

 

さて、さきほど書いたように、来年の今頃は就職活動に専念している時期だと思います。そのときに「大学で勉強をしてよかった」と思えるようにさらに知識を増やし、考えを深めていけるよう今まで以上に精進したいと思います。

 

かとけい

 

プレゼンは「詰め込む」のではなくて「省く」もの。

最近授業関連で立て続けにプレゼンがあり、その中でいろいろとフィードバックをもらう機会があった。

中でも最も大切な教訓は「プレゼンはいかにシンプルに作れるかどうかが勝負」ということだった。

 

プレゼンは情報を「詰め込む」ものという思い込み。

 

ちょうどこの前にしたプレゼンのテーマは「Conflict Analysis (対立分析)における学際性(=研究領域が複数にまたがっていること)」についてだった。紛争分析は国際関係論における一つの学問領域で、世界中で起こる衝突(紛争、戦争、民族対立など)における勢力同士の対立の構図について分析したり、いかにその闘争を防止できるかについて分析するものである。その紛争、戦争といったものが国と国、民族と民族同士の対立といった大規模なものであるために、その分析には非常に多様な学問的な見地からのアプローチが必要になる。(=対立分析における学際性)

 

この「衝突」の背景にある要因は、政治、経済、文化、歴史、ジェンダー、人種、etc...と多岐にわたり、またその「衝突」を分析するにあたって援用する理論も、伝統的な国際関係論における理論(リアリズム、リベラリズム等)をはじめとして、ゲーム理論構造主義などありとあらゆるものを参照する必要がある。

 

・・・とこのように少し専門性の高いテーマであったがゆえに、それを説明するのにもかなりの時間を要した。自分の中では「プレゼンはわかりやすく説明しなければならない」で「一つずつ概念をかみ砕いて、細かく説明する」ことが必要だと思っていたので、40枚にも及ぶスライドを作り、なるべくスライドには文字もグラフもふんだんに使うようにした。

 

詰め込みプレゼンは拷問である。

 

・・・結果は散々であった。プレゼンを初めて15分を過ぎたあたりであっただろうか、何人かの生徒がスマホをいじり始め、中には机に突っ伏して寝ている生徒もいた。そして30分を過ぎたあたり(プレゼンが予想以上に長引いてしまった!)まさかのまさか、教授がうたたねを始めた。

 

これはさすがに堪えた。前のセメスターでは原稿をほぼ丸読みしてしまい、あまりオーディエンスのほうを見れなかったことを反省して、原稿はほぼ見ずに、身振り手振りを多く使って説明したつもりだった。がしかし、そんな努力は無に帰した。自分の英語が聞くに堪えなかったのだろうか、説明がわかりにくかったのだろうか、と思っていたがその教授曰く、単純に「プレゼンが長すぎたし、スライドが多すぎた」ことが今回の敗因だったそうだ。

 

そこでハッとさせられた。「プレゼンはシンプルに作らなければならない」という基礎中の基礎を自分は忘れていたのである。ここでいう「シンプルさ」というのは説明の仕方を難しい用語を使わずに簡単な言葉に言い換えることだけではない。プレゼンは短く、はっきりとしたメッセージだけを抽出しなければならない。膨大な量の情報をプレゼンに詰め込んだとしても、それが相手の理解を助けるとは限らないのだ。

 

スライドはなるべく丁寧に、情報の抜け漏れがないように文字、図の両方を使って、視覚的に訴えたつもりであった。しかし、人間の頭は一度にすべてのことを吸収できない。一スライドで覚えていられるのはほんとに少しのことだけだ。それなのに、40枚にもわたって、国際政治の諸概念を事細かに説明をされれば、いかに教授であれども、眠気が襲ってくるものだ。自分の作ったプレゼンはオーディエンスにとってみればただの拷問に過ぎなかったのだ。

 

プレゼンは短時間で、シンプルに伝える。

 

この失敗から学んだこと。プレゼンは量的にも質的にもシンプルでなければいけない。もちろんアカデミックなプレゼンでもあるから、論理性を伴うものでなければならず、学問的に価値があるものでなければならない。Wikipediaなどからの引用はもっての他であり、文献からの適切な形での引用や、先行文献の正確な理解や高度な分析が求められる。この「シンプルさ」と「学問的な価値の創出」の両立が非常に難しいところであるが、その枠組みの中でいかに高いパフォーマンスができるかが腕の見せ所なのかもしれない。

 

少し仰々しい書き方をしてしまったが、そこまで恐れることではないのかもしれない。要は「いかに情報を削るか」ということに注意を払えばいいのだ。もちろんリサーチの段階では多くの文献に目を通さなければいけないのだが、それをすべてプレゼンに詰め込む必要はないのだ。情報を頭に入れた後は、その情報は省けるだけ省き、最小の形でアウトプットすればいい。

 

「プレゼンで伝える」とはそういうことだ。レポートではなく、プレゼンという形式で伝えるということは視覚的にもわかりやすいものにすることが最も重要である。どんなに口のうまいプレゼンターでも30分間絶え間なく話し続けたら、観客を退屈させてしまう。「シンプルに、短く、わかりやすく」この三拍子がそろってこそプレゼンはイキイキしてくる。