ホモサピエンス日誌。

ホモサピエンスの中のホモサピエンスに告ぐ。

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プレゼンは「詰め込む」のではなくて「省く」もの。

最近授業関連で立て続けにプレゼンがあり、その中でいろいろとフィードバックをもらう機会があった。

中でも最も大切な教訓は「プレゼンはいかにシンプルに作れるかどうかが勝負」ということだった。

 

プレゼンは情報を「詰め込む」ものという思い込み。

 

ちょうどこの前にしたプレゼンのテーマは「Conflict Analysis (対立分析)における学際性(=研究領域が複数にまたがっていること)」についてだった。紛争分析は国際関係論における一つの学問領域で、世界中で起こる衝突(紛争、戦争、民族対立など)における勢力同士の対立の構図について分析したり、いかにその闘争を防止できるかについて分析するものである。その紛争、戦争といったものが国と国、民族と民族同士の対立といった大規模なものであるために、その分析には非常に多様な学問的な見地からのアプローチが必要になる。(=対立分析における学際性)

 

この「衝突」の背景にある要因は、政治、経済、文化、歴史、ジェンダー、人種、etc...と多岐にわたり、またその「衝突」を分析するにあたって援用する理論も、伝統的な国際関係論における理論(リアリズム、リベラリズム等)をはじめとして、ゲーム理論構造主義などありとあらゆるものを参照する必要がある。

 

・・・とこのように少し専門性の高いテーマであったがゆえに、それを説明するのにもかなりの時間を要した。自分の中では「プレゼンはわかりやすく説明しなければならない」で「一つずつ概念をかみ砕いて、細かく説明する」ことが必要だと思っていたので、40枚にも及ぶスライドを作り、なるべくスライドには文字もグラフもふんだんに使うようにした。

 

詰め込みプレゼンは拷問である。

 

・・・結果は散々であった。プレゼンを初めて15分を過ぎたあたりであっただろうか、何人かの生徒がスマホをいじり始め、中には机に突っ伏して寝ている生徒もいた。そして30分を過ぎたあたり(プレゼンが予想以上に長引いてしまった!)まさかのまさか、教授がうたたねを始めた。

 

これはさすがに堪えた。前のセメスターでは原稿をほぼ丸読みしてしまい、あまりオーディエンスのほうを見れなかったことを反省して、原稿はほぼ見ずに、身振り手振りを多く使って説明したつもりだった。がしかし、そんな努力は無に帰した。自分の英語が聞くに堪えなかったのだろうか、説明がわかりにくかったのだろうか、と思っていたがその教授曰く、単純に「プレゼンが長すぎたし、スライドが多すぎた」ことが今回の敗因だったそうだ。

 

そこでハッとさせられた。「プレゼンはシンプルに作らなければならない」という基礎中の基礎を自分は忘れていたのである。ここでいう「シンプルさ」というのは説明の仕方を難しい用語を使わずに簡単な言葉に言い換えることだけではない。プレゼンは短く、はっきりとしたメッセージだけを抽出しなければならない。膨大な量の情報をプレゼンに詰め込んだとしても、それが相手の理解を助けるとは限らないのだ。

 

スライドはなるべく丁寧に、情報の抜け漏れがないように文字、図の両方を使って、視覚的に訴えたつもりであった。しかし、人間の頭は一度にすべてのことを吸収できない。一スライドで覚えていられるのはほんとに少しのことだけだ。それなのに、40枚にもわたって、国際政治の諸概念を事細かに説明をされれば、いかに教授であれども、眠気が襲ってくるものだ。自分の作ったプレゼンはオーディエンスにとってみればただの拷問に過ぎなかったのだ。

 

プレゼンは短時間で、シンプルに伝える。

 

この失敗から学んだこと。プレゼンは量的にも質的にもシンプルでなければいけない。もちろんアカデミックなプレゼンでもあるから、論理性を伴うものでなければならず、学問的に価値があるものでなければならない。Wikipediaなどからの引用はもっての他であり、文献からの適切な形での引用や、先行文献の正確な理解や高度な分析が求められる。この「シンプルさ」と「学問的な価値の創出」の両立が非常に難しいところであるが、その枠組みの中でいかに高いパフォーマンスができるかが腕の見せ所なのかもしれない。

 

少し仰々しい書き方をしてしまったが、そこまで恐れることではないのかもしれない。要は「いかに情報を削るか」ということに注意を払えばいいのだ。もちろんリサーチの段階では多くの文献に目を通さなければいけないのだが、それをすべてプレゼンに詰め込む必要はないのだ。情報を頭に入れた後は、その情報は省けるだけ省き、最小の形でアウトプットすればいい。

 

「プレゼンで伝える」とはそういうことだ。レポートではなく、プレゼンという形式で伝えるということは視覚的にもわかりやすいものにすることが最も重要である。どんなに口のうまいプレゼンターでも30分間絶え間なく話し続けたら、観客を退屈させてしまう。「シンプルに、短く、わかりやすく」この三拍子がそろってこそプレゼンはイキイキしてくる。

 

「きつかったけど、楽しかった留学」と語り継がれていく留学神話。

マレーシアからこんにちは、かとけいです。

セメスターが始まり、一カ月が経とうとしているが、いよいよ帰国までのカウントダウンも始まった。ホントにこの5カ月あっという間に過ぎ去った。

そんな中、帰ってから「留学どうだった?」と聞かれて、何と答えようなんて早すぎる心配をし始めた。

 

 

「留学どうだった?」と感想を聞かれて多くの人は何と答えるのだろう?

で思いついたのが「きつかったけど、楽しかった留学☆」っていうテンプレ回答。

ほとんどの留学生がこう答えるのには留学の一般的なイメージが関係していると思う。

「留学して、英語がペラペラになって、異文化体験で価値観が大きく変わって、充実した海外生活を送る」なんて留学神話がまことしやかに語られている。

 

一年間の英語で世間の思い描く「キラキラの留学生」になれるか?

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「英語がペラペラ」になるなんてごく一部の人にしか起こりえない。そもそも「ペラペラ」の基準はなんなのだろうか?ネイティブ並みに話せることだろうか?英語をきれいに流暢に話せることだろうか?自分の場合で言えば、第二セメスター目にもなると、自己紹介くらいは詰まらずに言えるようになるが、授業で発言を求められるとほとんどの回答がしどろもどろで、全く論理的でない英語しか話せない。

 

それでもほとんどの日本人は「留学したから英語がペラペラになる」という神話をまるで疑わないし、留学生である自分たちもわざわざそれを否定しようとはしない。というか、まるで一年で別人のごとく英語が喋れるようになったかのように振る舞うのかしれない。

 

これはある意味仕方ないことなのかもしれない。「留学経験」が一種の成功神話になっているがために、留学生が周りからかけられる期待も、自分に期待するものも大きくなっているのは当然のことだ。こう書いていて自分も「英語がメキメキ上達している」と思いたい自分が内面にいるし、帰国してからは外からのプレッシャーと戦わずにいられないと思う。

 

異文化理解による価値観の変化はどうだろう?日本とは明らかに違う生活スタイル、思想に触れることは確かに自分の価値観に何らかの影響を与えることは間違いない。しかし「価値観が180°変わるか」という点は疑問である。これは人にもよると思うが、自分はどちらかというと異文化に触れ、「自分がどういう人間か」という自分軸というものが確立した、といったほうが正しい。価値観の変化、というよりは自己の内にある価値観を再発見したというべきだろうか。

 

ただもちろん「英語力の向上、価値観の変化」に関しては個人差があると思う。性格的に社交的であったり、他人に好かれやすいタイプの人は英語力の向上が早い。ただそれでも、以前に海外に長期滞在していた、大学が英語教育に力を入れている、といった特殊な事情がない限り、英語力の向上は限定的なものになる。もちろん留学する前と後で比べれば英語力には雲泥の差があるが、それでも「ペラペラ」とは程遠い。

 

留学神話が生む留学生の葛藤と苦悩。

これはあまり留学生の口から出てこないことだとは思うが、日本の「留学ブランド」信仰は留学生に心的な負担となっているケースが多くあるように思う。先ほど書いたように「周りから向けられる留学生への期待、留学生が自己に向ける期待」と「実際のきつく、苦しい留学生活」の乖離が留学生を苦しめるのだろう。

 

FacebookをはじめとするSNSもこの現象を助長する一端になっているのだろう。誰も自ら苦悩に満ちた留学生活の様子をアップロードしようとはしない。こういったSNSはどちらかというとポジティブな内容、すなわち海外での成功談、楽しかった出来事等々をあげる場所として位置づけられている。留学生がほかの留学生のFB上の投稿を見て、「あの人はあんな充実した生活を送っているのに・・・」と嫉妬に近い感情を覚えたり、自己嫌悪に陥ったりする。でもよく考えれば、他の留学生も自分たちと同じように言葉が通じなかったり、疎外感を覚えたりするという体験は必ずと言っていいほどしている。

 

 

「きつかったけど、楽しかった留学」神話はもうやめにしよう。

このように、これまでの留学生によって広められてきた「キラキラの留学」神話は、ほかの留学生にブーメランのようにかえってくる。そしてその留学生はやはり「苦しかった留学」よりも「楽しかった留学」「充実した留学」というイメージを強調せざるを得なくなる。

 

ハッキリ言おう。英語は「ペラペラにはならない」。全く話せない状態から1年で「ペラペラ」になるとは「中身のペラペラな英語しか話せない状態」を指すのである。

 

価値観に関してもそれほど変わらないかもしれない。英語がペラペラなのは「留学した」からではない。本人の努力であったり、周りの環境がそうさせているのだ。「留学すれば英語がペラペラになる」なんて安易な考えは持つものじゃないと口を酸っぱくして言っておきたい。特に自分のような内向的な人は言語的な障害だけでなく、精神的な障害も乗り越えなければいけないことを考えると、英語の上達は一筋縄にはいかないと想像できるだろう。

 

留学から帰ってきた留学生はもっと留学の苦悩であったり、泥臭い部分を語るべきだし、留学を「キラキラの異文化体験☆」で片づけてはいけないと思う。逆説的ではあるが、海外の大学で真面目に(死ぬ気で)勉強すればした人ほど、英語はそう簡単にペラペラにはならないもので、海外での留学体験がどれほど苦しいものか知っていると思う。(たかが一年程度の交換留学の自分が言えたものではないけど)

 

これから留学に向かう留学生も「華の留学生活」という幻想にひたらずに、「苦悩の留学生活」を多少なりとも覚悟しておくべきだ。日本人とばかりつるんでばかりでは英語は上達しない。言葉が通じなかったとしても、留学生やネイティブとコミュニケーションをとっていくことが英会話上達の近道だし、アカデミックで教養ある英語を習得しようと思えば、大学の勉強に没頭すべきだろう。これらの経験はかなり心身ともに負荷のかかるもので「キラキラの留学生活☆」とは無縁だが、「キラキラの留学生活☆」を送った人とは比べもののならない教養、英語力が培われているはずだ。

 

かくいう自分もまだまだそれが実践できていない。「最近留学に慣れてきて楽しい」というのはある意味危機を感じるべきだと思うし、よりレベルの高い授業であったり、ネイティブやヨーロッパ圏の人と積極的にコミュニケーションをとって「レベルの差」を思い知らなければいけない。

 

・・・かなり留学のネガティブな面ばかり書いてしまったが、むしろこういった厳しい環境下でしか、本物の英語力は培われないと思う。自分の英語力はこのマレーシアのたった一年の留学の中では「本物」になることは決してないだろうが、いかにその「本物」への道のりが遠いかということを思い知ることができるだけでも自分は恵まれていると思う。ひょっとしたら一生その「本物の英語力」を手に入れる日など来ないかもしれない。それでも去年よりはちょっとマシ、一昨年前よりはもっとマシな英語が使えるようになるだろう。

 

「留学一年して、これで英語は完璧!自分の英語に自信がある!」「日本語と同様にスムーズに会話できる」なんて口がさけても言えない。むしろこのマレーシアでの留学は「自分の英語力がいかに残念だったか」を思い知り、今後もっと血のにじむ努力をして英語勉強に励もうと思わせてくれる。

 

「苦しい、きつい留学」で結構!

「きつかったけど、やっぱり楽しかった留学神話」よりも「きつくて、しんどい留学秘話」をもっともっと多くの人に発信していかなければ、と思う今日この頃。

SNSでは見られない、その人の『裏の顔』を覗きみたい。

お久しぶりです、マレーシアからこんにちは。毎度おなじみかとけいです。

そろそろセメスターブレイクも終わりに近づき、新しい学期が始まろうとしています。

 

最近はもっぱら家にこもって海外ドラマを食い入るように見入っています。笑

引きこもりがちなせいか、ちょっと日中にお天道様の下に行くと眩暈がするという笑えないことになっていますので、そろそろ本気で外に出ないとまずいと思っております。

 

まあそんなことは置いといて、今日はちょっとディープというか、ともすれば自分の性格の悪さがにじみ出てしまいそうなテーマ、「SNSで教えてくれない『裏の顔』」について書こうかなと。

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あくまで「発信」するツールでしかないSNS

最近Facebookやインスタグラムを見て思うことがあります。

「一体この人の投稿のどこまでがホンネで、どこまでがタテマエなんだろう?」

基本的にこういったSNSの類に投下される写真や文章といったものは良くも悪くも加工されています。

まあ当たり前っちゃ当たり前ですが、「SNSに投稿しよう」と思うからにはその人なりに思うところがあるわけです。

 

自分が感じたもの、見たもの、聞いたことがそのままの形でSNSに反映されることはほぼありません。特にFacebookであったりインスタグラムは投稿するには、写真を撮ったり、文章を打ったりとなんだかんだで結構手間のかかるものです。

(もちろん使い方にもよるけれど)

 

そのプロセスの中で、自分が意識せずとも「相手にこう見られたい」「こうは見られたくない」という心理が働いて、表に出されるメッセージは誰が見てもクリーンな、ポジティブなものになることがほとんどではないでしょうか。

 

何だかすごく性格悪いこと書いてるような気がしますが、ここで言いたいのはそれが悪いとかそういうことではありません。むしろ不特定多数の人に見られているSNSではそうあるべきです。誰かのことを傷つけることを書いてはいけないし、相手を暗い気持ちにさせることは避けるべきです。(このブログは読んでて暗い気持ちになる人はいるかもしれませんが笑)

 

それに誰しもが他の人に良く見られたいと思うのは至極当然のことで、「自己承認欲」なしに人は生きていけません。僕もこうしてブログを書いて、誰かに読まれて、批評なりなんなりをもらうことによってその欲を満たしているわけです。笑

 

ただそのSNSの「ポジティブ補正」という性質ゆえにその人の眩しい部分ばかり見えてしまって、その人の混沌とした闇の部分というのが全く見えない。もうね、光りすぎて目を開けてなれないくらいの眩い光を放っている人も中にはいます。笑

 

で、そういう投稿ばかり見ていると何でしょうか、その光の眩さにどこか影に隠れてしまいたくなる自分がいます。

その逆に「たまには光ってみようかな」なんて思って、仰々しく言葉を並べてみたはいいものの、何だか地に足がついていないというか、背伸びした文章に嫌気がさして、結局当たり障りのない文章を書いている自分がいます。

 

そんなこんなしてるうちに「やっぱり自分にはこういうの向いてないや」とか思い出して一回更新するのをやめてみたり。でもやっぱりほかの人のことが気になるからまた初めて見たり。ホントブレブレですね、嗚呼情けない・・・。

 

・・・ちょっと話が逸れましたが、要はこうやってSNSを投稿するプロセスの中には大なり小なりその人の思い入れがあるわけです。見る側もそれに応じて葛藤したり、励まされたり・・・。

 

でもその投稿がその人の「ありのまま」でないとしたら。それが「作られた」ものであったとしたら。むしろ僕はその裏側にある深い闇の部分を見てみたいと思います。

 

闇があればあるほど面白い。

こんなことを思うのは僕が真性のネクラ野郎だからに違いありません。笑

でもやっぱり人間、いつだってポジティブにはいられないし、いつだって楽しいことがあるわけじゃありません。いやむしろつらいことのほうが多いよ・・・。

 

そういう部分はSNSじゃ出てきません。でもSNS全盛期のこのご時世、こういったキレイで眩いメッセージが飽和しています。それを見て相手に嫉妬を覚えたり、人間関係に悩んだりするなんていうのも「SNS疲れ」の一種の症状でしょうか?

 

「私こんなに充実してる」「私こんなに幸せ」「私もよ」「あら私もそうなのよ」という見えの張り合いは疲れます。もちろんたまにはそういうのも必要ですが、それと同じだけ「あああの時はこんな辛いことがあった。」「ほんとやってられないわ」という苦労話、不幸話もあっていいかなと。

 

面白いことにそういう苦労話、不幸話もなんだかんだで笑い話になるし、むしろそっちのほうが盛り上がったりします。だからこそ、そういう中々人前では言えないような「闇」の部分をたくさん蓄えている人が「面白い人」なんじゃないかなって思います。

 

まだまだ僕も学生なのでこれから先もっと恐ろしい闇を抱えることがあるかもしれません。しかも人前ではそういったネガティブなものを見せずに、襟を正して生きていかなければいけないかもしれません。でもたまにはその混沌とした闇の部分を打ち明ける機会も必要だし、それが話のタネになると思います。

 

そんなこんなで闇の深い方、大募集でございます。笑

僕も今留学中なので、楽しいことと同じくらい、いやそれ以上のつらい経験をして、話のネタを増やしていくことに腐心して参ります。

 

かとけい

 

 

 

 

 

文系学問の有用性について。part2

マレーシアからこんにちは。

今回は前回に引き続き、文系の有用性について思うところを書いてみようと思います。 

 

すべての土台は文系にあり。

文系不要論の根底には「文系ー理系」という二項対立軸があり、理系との比較なしに文系の有用性を語ることはできない。つまりはこの文系不要論の中では「理系は有用性があるけど、文系は理系と比較して有用性がない」という前提がある。ここでの「有用性」とは「実用性」と言い換えることができる。

 

実用性。その学問が果たして社会の役に立つのかどうか。その知識が直接的な形で自分たちに利益をもたらすかどうか。理系であれば、医学の知識は人の病を治すのに役立つし、機械工学であればものを作り出すのに役立つ。理系の学問は目に見える形でその効果を表す『物質(もの)をつくる』力があるといえる。

 

文系の学問はどうだろうか。文系の学問は往々にしてその効果が見えにくい。論文という形で目に見える成果を残せてもそれ以上のものはなかなか生み出せない。それゆえに文系の学問は「役に立たない」という指摘がされるのだろう。たしかに文系の学問は直接的な形では私達の生活に関わってこない。この意味で実用性は無いかもしれない。しかし文系は理系の学問の生み出せない「価値観」を生み出すことに成功している。この価値観はすべての人間の創造物の根源にあるものである。

 

なぜモノは作られるのか?

少し話が抽象的になってきたので具体例をもとに考えよう。

なぜ人々は「洗濯機」を作ろうと思ったのか。

汚れた衣服をきれいにするため?

それも人の力を借りずにスピーディーにきれいにするため?

時間を短縮するため?

このどれもが正解である。これらの「価値観」が人々に洗濯機を作るように促したのである。

なんの考えもなしに急にモノづくりをしようとすることはありえない。

人々の行動には必ずその行動を起こそうとする理由がある。「価値観」もその人々の行動に影響を与える大きな一つの要素である。それが良いとされているからそのモノは生み出される。

 

理系の学問はこの価値観の成熟とともに発達してきた。良いものをより良く、良くないものをより良くしようとするのは当然のことである。私達はそのモノ作りのプロセスに目を向けがちだが、このモノ作りの根本にあるのは価値観である。なぜそれが良いものか、あるいは良くないものか。なぜ必要か、なぜ不必要か。それらの価値観の創出は当たり前かつ、自然のうちに行われるがゆえになかなかスポットライトを浴びにくい。

 

文系の学問はこの「価値観」の構築、分析、再構築を行う。

なぜその文学は生み出されたのか。その文学にはどういった文学的価値があるのか? 

先行研究の中で矛盾している点はどこか?

 

「どういった点で有用か」ではなく、まずその問の前提にある「有用性」というコトバに目を向け、「有用性=社会の役に立つもの」と言う認識をもたらしているものは何かといったことを追究することが文系の果たすべき役割である。

 

複雑な物事をシンプルに、シンプルな物事を複雑に捉える文系。

上記したように、文系の学問の真骨頂は「価値観創造」にある。

この価値観の創造は既存の物事を多角的な視点から捉え直すことから始まる。

シンプルなこと、当然だと思われてる事象を別の自称と結びつけて複雑に、

複雑な事象をある理論に基づいてシンプルに考える。

これが文系の研究ではないかと思う。

 

政治における政策決定のプロセスもこれに似たものがあると思う。

ある外交政策の合意形成の際に国内事情、国外事情を汲み取って慎重に検討していくこと。

難しい局面で過去の政策をモデルにして、打開策を考えること。

物事を抽象化、一般化、体系化すること。

価値観はこういったプロセスの積み重ねをもとに生み出される。

 

この価値観が定まれば後は一直線である。「実行」あるのみ。

こう考えると理系の学問は価値観を実行に移す学問といっていいだろう。

もちろんそのアイデアが形になったあとでも価値観は常に移り変わっていくものである。

「これを作ったのは、この技術を開発したのは果たして良いことだったのだろうか」

正しい価値観といったものを見つけるのは難しいが、常にその価値観を見定めることが文系の義務なのだろう。

文系学問の有用性について。part1

マレーシアからこんにちは。かとけいです!

 

今はお隣のタイに来ておりバカンスを満喫中です。また旅行が終わり思考の整理ができ次第、タイの記事を書こうと思います。

 

今日は高校の後輩とlineしていて話題にのぼった"文系学問の有用性"というマジメなテーマで思うところを少し。

 

 

広がる文系学問不要論。

"文系の学問なんて社会に出て役に立たない。" 

最近そんな声が良く聞かれるようになった。実際文系の学問を専攻している誰もがこの疑問を一度は抱き、自分の学んでいることが将来役に立つのかと不安になった経験があるのではないだろうか。

 

企業はそんな僕たちを待ってはくれない。死ぬまで哲学しても答えが出なさそうな"何のために学問をしてきたのか"に一定の答えを出すように迫り、さらにその学びをいかに企業に還元していくかという意地悪な質問を僕たち学生にするわけだ。

 

結果的に僕たちは企業の求める"即戦力"となりえるような学問のあり方を追求したり、さらには学問から離れたところにその答えを求めたりする。

 

有用性の外で、本気で学問をする学生に捧ぐ。

それが悪いとか良いとか言うつもりは全くない。しかしこのままでは"即戦力"とはならない学問を学ぶ学生たちがあまりにも救われない。

 

文系の学問に純粋に興味を持ち、授業の中でより優秀な成績をとったり、ユニークなアイデアを出そうと努力する学生。

 

" そんなの将来のなんの役にたつんだ"

勉強していたら一度は抱く疑念。

自分もある意味興味を持ったらとことん追求しないと気が済まない凝り性なところがあるから、こういった"文系不要論"に対して全く反論できないで悔しい思いをしてきた。

 

そもそも文系の学問に有用性を求めること自体不毛な議論かもしれないし、その学問を本気で学ぶ人達にはおせっかいなことかもしれない。

 

まあでもやっぱり言われっぱなしは悔しい。何か一言物申せないか。

 

ということで、ここではあえて"文系の学問に有用性を見出せるか"という問いを立てて、文系っぽく独断と偏見に満ちた推論をしてみようと思う。

 

 (長くなったので2回にわけます笑)

 

前期セメスターを振り返って

マレーシアからこんにちは、かとけいです。新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。ブログも2017年はより精力的に更新していこうと思います。

 

今回は2016年の振り返りということで、留学直前と留学渡航前半についての反省を書きます。かなり主観的な感じで

 

いやーそれにしても2016年めちゃくちゃ早かった。こうやって留学もあっという間に終わっていくのだ思うと、毎日を大切に生きないと、と切に思います。

 

それでは激動の2016年振りかえってみましょう。

 

2016年前半: "動く"を目標に。

2016年前半はとにかく今までやったことのないことにひたすらチャレンジしてみました。

 

例えば、トビタテ留学JAPANへの応募。必要書類を揃えるだけでなく、プレゼンのスライドを作ったり、面接対策をしたりでかなり苦労しました。ちょうど留学準備の時期と重なったので尚更です。しかしながら、大学の先生方や友達にプレゼンのアドバイスをもらったり、企業の方と面接させてもらったりかなりいい経験ができたかなと思います。

プレゼンといえば、派遣留学候補生としてこれから留学する人にむけてのプレゼン発表をしました。ぶっちゃけ留学もしてないのに一体何を話せばいいか全く分かりませんでしたが、"こうしたほうがよかった"という失敗談の方がためになるかなと思ってそういう話をしたつもりです。後ほどまた触れますが "留学は準備が全て"だと思います。これは

マラヤ大学での授業を辛口レビューしてみる。

マレーシアからこんにちは。かとけいです。

マレーシアで留学と言ってもなかなかイメージがつきにくいと思うのですが、特に授業とかはどんな感じなのかといった情報が少ないような気がします。

そこで今日は僕がマレーシアで前記取った授業について辛口レビューをしてみたいと思います。

 

まずは取った授業一覧。

  1. 外交政策分析 Foreign Policy Analysis
  2. 人権と国際政治 Human Right and International Politics
  3. 広告学 Advertising 
  4. 文化観光学 Cultural Tourism

 

こんな感じです。授業は一コマあたり2時間でそれに加えてチュートリアルが一時間確保されているので全部で3時間、日本の大学の授業2つ分くらいだと思います。履修は最初の2週間で決めるということでこれは日本の大学とほとんど同じ制度ですね。

 

それでは早速レビュー行ってみようと思うのですが、わかりやすくするために以下の基準を設けました。

  1. 難易度 ★5〜1 (TOEFL80くらいの人が受講したと仮定して)
  2. 面白さ ★5〜1
  3. 総評

この3つを基準に書いていきます。

 

1.外交政策分析 foreign policy analyse

難易度 ★★★★

面白さ ★★★★

この授業内容自体はすごく面白いと思います。

まずは国際関係の柱になる3つのセオリー、リアリズム、リベラリズム、社会構築主義について学び、プロパガンダや経済制裁についても理解を深めます。

最後の4週くらいはこれらのセオリーを実際に国際政治の分野に当てはめたらどうなるかということで中国の国内政治の国際化であったり、EUの加盟国拡大政策、ブラジルの南米におけるリーダーシップ政策などについて扱います。

 

授業自体は前もって先生の配布するスライドを読んでおけばそれほど難しくはないのですが、それでもやはり理論的で抽象的な議論が多いのでなかなか一回では理解しづらい部分がありました。

先生の解説自体はものすごくわかりやすいし、一度予習してわからなかったところもほぼスッキリして授業を終えることができました。

 

ただ問題はスライドの煩雑さ。一枚のスライドに150語くらいで英語がぎっしり書いてあるので見にくいったらありゃしません。スライドを咀嚼するだけでも2時間弱かかるときもあったほどです笑

それと予習で参考文献が提示されてそれを読んでこないといけないのですか、その文献が論文ではなく一冊の本で300ページ超えということがザラでそれが7個も8個も並んでいるのでどれから手を付けたらいいかわかりません。

これをすべて読み切るのは不可能なので何とかエッセンスだけでも拾い上げて読もうとするのですが情報が膨大すぎてほぼ不可能。短いまとめの論文であったり、有益なサイトなどを紹介してくれるともう少し勉強が捗ったのかななんて思います。

geogle scholarなり何なり使って自分で調べろやという自主性を重んじる感じなのかもしれません。笑

 

ただ最初にも書いたように内容自体はすごく面白いので後期も国際政治系の授業を幾つか取ろうかなと思います。

 

2.人権と国際政治 Human Rights and International Politics

難易度 ★★★

面白さ ★★★

この授業は主に人権の発達と国際機関の仕組みについて学びます。人権という概念はそもそもどこからやってきたのか、現代の人権は西洋諸国の個人主義の押し付けではないか、といった疑問についても焦点を当てています。

 

この授業の面白いところは「西と東」の対比が常にされていて、普段常識と思っていることが実は西洋諸国の人権思想から来ていて、東洋諸国はその犠牲になっているということに着眼するところでしょう。マレーシアの大学だからこそ西洋中心ではなく、東洋世界に目を向けた学問を追究できるという強みがあります。

日本でもほとんどの情報が西洋諸国からもたらされる情報で東南アジアからの思想であったり、政策が優先的に取り扱われることはまずありません。自分たちが得ている情報はキリスト教精神を反映しているもので、イスラム世界の声が全く届いていないともいえます。そういったことがこの授業で学べました。

 

と真面目に書いてみましたが、ぶっちゃけて言うとちょっと授業そのものは自分にとってあまり面白いものとは言えませんでした。

論文を読んでいてもひたすら「グローバル化するこの世界において国際人権規範については政治的アクターが云々で、その規範について再考、再概念化が必要である」みたいな抽象的な議論が延々と続くので、かなり精神を消耗しました。笑

そもそも「人権」ということは自体がかなり広い意味を持つので、こういった議論も自ずと抽象的になってくるのは仕方ありません。このテーマは抽象的な議論が好きで理論的な話にワクワクしちゃうような人にはおすすめです。

 

3.広告学 advertising

難易度 ★★

面白さ ★★★

広告学ではメディアの機能や種類について学んだり、実践的な広告の戦略理論について学びました。広告、メディアという自分たちに近い存在のものをテーマとして扱う分、それほど抵抗なくスッと頭の中に知識が入っていく感じがします。

 

ただ逆に言えば、なんと言うか、「俺今勉強してる!」感があんまり味わえないのが残念なところです。

これも完全に趣味嗜好の問題かもしれませんが、何となく直感的にわかりそうなことを学ぶのが好きか、客観的で抽象的な議論から入っていくのが好きかのどちらかでだいぶ意見が分かれそうです。

僕はどちらかというと煩雑で直感では分からないようなものが好きで、「●●主義」とかそういう用語が出てくるとちょっとワクワクしちゃう変態(?)なのであまりのめり込むことができませんでした。

 

広告学のセオリーみたいなものを大量に学んでから、広告の分析に入る、と言う形式であればもう少し興味が湧いたのかなぁと思いました。

例えば「SNSを利用した広告の拡散」についての理論を学んだ後に、実践的な取り組みとして『「君の名は」の大ヒットにあたってSNSメディアでの宣伝効果がもたらした影響について』と言った感じで分析チックなことができればいいなぁと思っていたんですが、なかなかそうはいかないのが現実。

 

テレビが果たす役割とは、オンラインメディアが果たす役割とは、と言った感じでひたすら一般的な説明の連続で、各々の概念についての掘り下げであったり、理論的な大きな枠組みの中で考えるといったことかあまりなかったため、ただの単調な暗記になっていた気がしました。

 

もちろんこれも僕個人の感想で、メディアについて学ぶのが好きな人は取って損をしない授業だと思います。

 

4.文化観光学 Cultural Tourism in Southeast Asia

難易度 ★★

面白さ ★★

文化観光の諸概念についての説明があった後、東南アジアの遺跡についての文化的価値であったり、保護活動について焦点を当てていく授業。

 

本当にごめんなさい。本当に申し訳ないんですが、この授業は自分には合いませんでした。

「観光学」ってなんか面白そうと思ってたのですが、そんな幻想は早い段階で粉々にされました。

 

文化観光の定義とは、有形文化遺産とは、無形文化遺産とは、という定義の説明が何週かにわたって説明されます。もうこの段階でちょっと自分は何か違うと感じていて、結局そのモヤモヤが晴れないまま授業が終わってしまいました。

 

自分には何が向いてなかったんだろう、と考えたときにやはりそのテーマ自体に興味が持てなかったのが大きかったんだと思います。観光をするのは好きでも、実際に自分がその観光で文化的価値、歴史的価値に興味を持ってみているかというのが疑問でした。

 

もちろん自分の今まで知らなかったこと、目を向けていなかったことに目を向けることができるのも学問の大切な役割ですが、この分野は何故かあまり興味が持てませんでした。

 

毎週の課題があまり出されず、最後にどっと大量の宿題が出されたのもあまりこの授業が好きになれなかったところかもしれません。一般的に言えば宿題の出ない「楽な授業」なのかもしれませんが、留学で英語力の向上を目的にしている部分もあるので少しキツイくらいのほうが自分の為になるかなと思っていた部分も少なからずあります。

最後の課題は信じられないほど多かったのですがもうその時にはあまり授業のテーマ自体に興味を失いかけていて、とにかく量をこなすことが目的になっていました。

 

誤解のないように言っておくと、もちろんこの授業も東南アジアの歴史的建造に興味がある人にはオススメできる授業です。

 

まとめ

不満もあることにはありますが、概ね今期の授業には満足しています。

偉そうに書いてますが、まだ単位取得できるかも定かでないという。笑

 

次のセメスターでは今回の反省を活かして次のような基準で授業を取ろうと思います。

国際政治系の授業を少なくとも1つ

興味のあるIT、コンピューターサイエンス系の授業を1つ以上

ムスリム文化についての授業を少なくとも2つ

なるべく自分に負荷がかかりそうな授業を取る

こんな感じです次のセメスターも頑張っていこうと思います!